Book : 成約人への道

The Way in the Completed Testament Age



はじめに


 成約時代は、天地父母様が地上にお座りになることによって、子女たちが完成し、神人愛一体の愛の理想が成就する時です。

 真の御父母様は早くからみ言を通じ、神様と人間は親子の関係だということを明らかにされ、その関係を連結する根本の力が真の愛の心情であると教えてこられました。

 「全宇宙の根本は、真の愛が土台となり、神様を中心とした親子の関係も心情によって完成し、生活の中で侍って生きる心情の社会」であると語られました。

 真の愛による心情の完成的体恤は、神様の真の愛の中で心と体が統一を成すとき、成就し、家庭の完成も夫と妻の関係が真の愛によって一つになるとき、成就するとおっしゃいました。

 本然の世界は、お一人の神様を中心とした一つの大家族社会です。神様を父母として侍って生きる巨大な一つの家族です。したがって、この大家族社会は万民が心情によって調和して生きる心情文化社会なのです。

 心情が血縁のような絆となって生きる世界、血肉の情を越えた心血社会は、自由と平和と統一と幸福の世界が成就した心情文化の共生共栄共義の世界なのです。

 真の御父母様は、多くのみ言を通じて、生きていらっしゃる父なる神様が分かるようにしてくださり、人間の根本道理を悟らしめ、本然の世界へ向かうことのできる個人完成と家庭完成、そして家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成した成約人の営みと、霊界をはっきりと教えてくださって、生命と永生の道へと導いてくださいました。

 成約人は人類の父母であられる天地父母様に侍り、地球星は私の故郷であり人類の故郷、天宙は私の祖国であり人類の祖国であることを知り、成約人は父母が同じであり、故郷が同じであり、祖国が同じ創造理想世界である神様の国を創建しなければなりません。

 どうかこの本をたくさん訓読されることによって、神様の創造理想を相続し、新たな心情文化を地上に花咲かせる成約人としての人生を培っていかれる皆さんとなられることをお祈りいたします。


一九九九年十二月二十五日



 日本語版発刊によせて


 文鮮明先生は「人間が、①神様について明確に分かっていれば、②真の御父母様がどのような方なのか明確に分かっていれば、③霊界について明確に分かっていれば、④罪を犯したら蕩減復帰の道を歩まなければならないことに対して確かに分かっていれば、その人はどこでどんな環境の中で暮らしても罪を犯さずに生きることができるでしょう。いや、この中の一つでも確かに分かっていれば、その人は善なる人になるでしょう」と語られています。

 このみ言を基に七つのテーマを設定し編集したのが本シリーズです。

 本書は、シリーズの最後に位置づけられる本です。成約時代、完成時代を迎え、蕩減復帰されて本然の立場まで戻ったのち、私たちはどう生きるべきでしょうか。これは最も重要な課題であると言えます。

 侍る生活、統一する生活、真の御父母様の生活的伝統、創造理想を中心とする根本原理など、成約時代における天国人としての信仰生活についてのみ言が集められています。

 この本を活用され、皆様が高い理想と志を掲げ、希望ある人生を歩まれることを願ってやみません。


一九九九年十月


 人生とは何か

  一) 今まで人生問題は迷路


 私がなぜ生まれ、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。生まれたことを、皆さんが自分で生まれたと考えてはいけません。生まれはしたけれど、どのような動機で生まれ、何のために生まれたか、私をして生ましめた動機と目的が分からない私たちです。生まれるには生まれたけれど、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きるけれど、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死ぬけれど、私が死のうとして死ぬのではないというのです。

 ところで、私をもってして何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身のその何かをもって生きることもできず、死ぬ道を避けることもできない自分をもって何を誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたので生きなければならない運命であり、またそのように生きていかざるを得ない運命です。

 今日まで哲学は、歴史時代を通じて人生問題を解決するために苦心してきました。真の人間の価値、人間がどのように完成することができ、人間自体から勝利して万宇宙に誇ることのできる勝利の完成した姿を、いかに成し遂げるかという問題を中心として、数多くの哲人たちが出てきて、苦心しながらありとあらゆる主張をしました。それが今となっては、人間を通じて思想体系を立てたすべての主義主張がもはや実験をすべて終え、既に落第してしまったというのです。みな脱落してしまいました。

 なぜ人間が、このように特別することもなく生きながらも死ぬことを嫌い、「なぜ生きるべきか。根源がどのようになっているのか」と、皆さん疑問が多いでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書籍を通しては解決できません。哲学というものは、今まで神様を探していく道を開発したものです。宗教とは何でしょうか。神様を知って、共に生きる生活から始めるのが宗教生活です。

 人生をこのように生きて行く目的とは何でしょうか。この問題を、もう一度考えてみなければなりません。動機が私によるものではなく、目的も私だけのものではないことに間違いありません。生きる上において幸福な場を嫌う者がどこにおり、豪華絢爛な場で生きたくない者がどこにいるでしょうか。しかし思いどおりにできないのが私です。それでも自分を誇りたいし、思いどおりに生きたいし、思いどおりに残りたい私です。このような心情の交差点をもった私だというのです。

 さあ皆さん、見てください。皆さんが八十年ほど生きたとします。その中で夜寝る時間を除けば四十年になります。半分に減るということです。寝ることも生きることでしょうか。寝ることは死んでいるようなものです。寝ることは死んだ命です。ですから、二十四時間の間で生きようともがく時間は半分にもなるでしょうか。また、そこから御飯を食べる時間を一時間ずつ切り捨てたらどうですか。御飯を食べる時間を一時間は見ないといけません。

さあ、またその中で友達の宴会の日、近所の町内のお年寄りの還暦を祝う日、誰かが亡くなった日、葬式を行う日、病気になって寝ている日、すべての日を全部差し引くと一生の中で生きているという日が半分にもなるでしょうか。この間計算してみたところ、生きているという日が七年と出ました。その七年の中で「本当に生きた」と言える日が何日出てくるかというのです。

 一生というものは早いのです。一生は本当に早いのです。物心ついてこの世の物情を知り、あれこれしていて四十を越えたら五十であり、もう十年はあっという間なのです。そして十年たてば六十があっという間であり、六十になれば七十があっという間であり、私も静かに考えてみると、一場春夢(注:人生のはかないたとえ)という言葉を実感するのです。

自分が運を百ほどもって生まれたのに、百二十ほど生きて死ぬ人は、その後孫が滅びるのです。人の運は、ゴムひもと同じでピンと張るというのです。しかし八十ほど生きて死ねば二十ほどの福を残して、その運勢を後孫の前に相続してあげ、逝くことができるというのです。

 運命は変更することができますが、宿命は変更することができないのです。大韓民国の人として生まれたことは、変わり得ますか。自分のお父さんの息子、娘として生まれたことは、変わり得ますか。その国の主権がどんなに強く、その国の慣習がどんなに強くても、お父さんの息子、娘だということは変更できないというのです。そのように復帰の道は、宿命的な道です。どうせ、いつの日かは清算しなければなりません。

 出発を誤ればとんでもない所に行くというのです。ですから船が大海を航海するにしても、出発した港から羅針盤を中心として行くべき目的地に向かって、方向性を描いてこそ行くことができるというのです。

 それでは、人間が出発した港とはどこなのでしょうか。分からないでいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達することのできる、目的地を描いて行くことのできる方向性がどこにあるのでしょうか。ないというのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように見るとき、人間はどんなにやったとしても人間で終わるのです。


  二) 私たちはどこに行くべきか


 一生を経たのちに、私はどのような所に行くのでしょうか。これが、人間たちが解決しなければならない重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。それで皆さん自身も、このような運勢に捕らわれて導かれていっていることを否認することができないのです。

 それならば、どうせ行かなければならない私自身であるとすれば、この体はどこに行こうとするのでしょうか。この心はどこに行こうとするのでしょうか。またこの生命はどこに向かって傾いていて、私の心情はどこに行こうとするのでしょうか。私の所願あるいは所望と理念はどこに行こうとしているのでしょうか。

 この問題を解決することができないとしても、私たちはどうせ行かなければならない運命に置かれているのです。私たちが生きて、そして死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わるのです。それならば体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは所願までも一緒に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここに確実な内容と、確実な解決点と、確実な目的観を立てておかない限り、これは不幸な人間でしかあり得ないのです。

 せみの卵がせみになるためには、赤ちゃん時代、幼虫時代があります。幼虫時代には水たまりに棲み、あるいは地面のくぼみにある穴の中に棲むとしても、それらが行かなければならない道はそこではありません。大空を飛ぶことのできる道を行かなければならないのです。飛ぶためにはどんなに地面の穴を掘り入ったり、水の中で泳ぎ回ったとしても、その過程で何かを準備しなければなりませんが、それが絶対条件だというのです。なくてはならない条件だというのです。

 幼虫時代から成虫時代に越えていくためには、幼虫時代において飛ぶことができる万端の体制が準備されなければならないのです。そこに反対の要素である皮を脱いで整備することができる一時を必ず通過しなければなりません。殻を脱がなければなりません。水の中で棲む時は平たくなければならず、水の上に浮かんで回るのに必要な姿が適格でしょうが、空中で飛ぶようになる時にはそうであってはいけないというのです。そこに合うように、すべてのものが整えられなければなりません。

 私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行かなければならないのでしょうか。このことは、神様抜きには絶対駄目なのです。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果は収められず、価値が認定され得ないのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。

 秋の季節が来たという事実は、冬が近づいているということを意味します。冬は、生命があるものだけが通過することができる路程です。生命をもてないものはすべて、ここで後退するしかありません。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しなさいというのです。

 新しい生命は新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければなりません。そうでなくては、冬の季節を通過することはできません。冬の季節を通過することができる生命力をもつようになれば、それを通過する過程には苦労が多いのですが、行けば行くほど春の日が近づくのです。春の日が訪ねてくるのです。統一教会はその道を行くのです。


二 人間は原因たる存在ではない

  一) 本来神様の愛によって生まれた人間


 本来私たち人間は、自分の意志によって生まれたのではありません。また、父母なら父母自身がこれこれこのような息子、娘を生もうという計画のもとで生まれたのでもありません。このように私たちは、父母の要求によって生まれたのではないというのです。神の摂理を中心として私たちが存在するようになった根源を掘り下げてみるなら、私たち人間は摂理の起源と一致し、その起源を中心として動いていく歴史と関係を結ぶ重大な責任をもつための一つの生命体として、この地に送られたとしか考えようがないのです。

 それゆえ歴史過程にある私自身、その中で生きている私たち個体がどんなに小さいとしても、一つの個体として終わるのではありません。

 人間自体が、自分で生まれたのでしょうか。自分を主張することができる起源はどこにあるのでしょうか。この大宇宙の原則の前に人間を主張することができる起源を、どこから探さなければならないのでしょうか。私たち人間は生まれた結果的存在なのに、結果的存在が原因を知ることはできないのに、自分を主張しようとする人、そのような人たちは精神の抜けた者たちです。全部が狂った人です。

 生まれたことについて、なぜ生まれたかという問題、神様が人間をなぜ造り、天地万物をなぜ造ったかという問題、その結論は簡単です。神様も愛の対象が必要なので、愛の対象として人間を創造されたのです。皆さんは今、「何でもない姿の私のような存在は、いてもいなくても同じだ」と考えるでしょう。それではいけません。神様の愛の対象になるのに、父母の前に子供が優れているからといって愛するのではありません。子供であれば、優れていようがいまいが愛するというのです。

 障害のある子供をもつ父母の胸がもっと痛いのと同じように……。天地の中心であられる神様の愛の心は、皆さんが優れているとかいないとかいうことを超えているのです。本性の愛の、そのパターンをもっているかいないかということが重要です。ですから、私がなぜ造られ、宇宙がなぜ創造されたかということを知らなければなりません。愛の理想を完成させるために造られたという事実を知らなければなりません。

 神様がなぜ天地万物を造り、神様が私をなぜ造ったのでしょうか。愛のためです。私がなぜ生まれたのでしょうか。神様の愛ゆえに生まれたのです。神様の愛の中で生まれ、神様の愛の中で生きるために生まれたのです。「神様と共に私の家庭で愛することができる人だ、神様と共に私の社会で愛することができる人だ、神様と共に私の国で愛することができる人だ、神様と共に私の世界で愛することができる人だ」と言うことができる人になるために、神様の愛の中で生きなければならないのです。

 私というものは父母から何を受けて生まれたのでしょうか。生命の連結体として生まれた、このように見るのです。お母さん、お父さんが一つになる所から、お母さん、お父さんの生命力の価値をもって生まれたというのです。

 その生命力は何によって? 愛によって。その生命力と愛は何ゆえに? 宇宙の目的を完成するために。このようになるのです。目的を完成するために生まれたというのです。男なら男、女なら女としてのある目的、大宇宙目的の協助体としての自らを完成するために、このような生命力を中心とした結合によって生まれたというのです。

 私たちが生まれたのは、なぜ生まれたというのですか。何のために生まれましたか。神様の愛、神様の愛ゆえに生まれたというのです。ここで「ドカン!」といえば、神様の頭に「ガン!」と通じることのできる、その愛だというのです。皆さんが何かを持って池に「ポン!」と投げれば、波紋が池の辺に広がるのと同じように、この宇宙の中で愛を「パーン!」と投げれば、全宇宙に波紋が生じるはずだというのです。そのようなことをしているのです。皆さんが何によって大きな波紋を起こすかということが問題だというのです。

 神様とはどういうお方でしょうか。創造主です。創造主とはどういうお方でしょうか。宗教世界での概念では、「神様は私たちのお父さんだ」「私たちは神様の子女だ」と言うのです。では、そのお父さんは、どんなお父さんですか。どのようになったお父さんですか。これは漠然としているというのです。

 借りてきたお父さんですか、隣近所のお父さんですか、あるいは養父ですか、どんな父母ですか。そうでなければ妻の父母ですか、嫁ぎ先の父母ですか。お父さんという言葉はたくさんあります。根本を解決できずしては、どんなに環境が拡大されたその世界で解決しようとしたところで、それは解決が出てこないのです。千万年行っても解決ができないというのです。

 それならば、人間と神様が問題です。「神様が私たちのお父さんだ」と言うとき、皆さんは神様がお父さんだと感じられますか。私よりも、私がいる前にもっと確実なのがお母さん、お父さんです。お母さん、お父さんが私より先にいるので、私がいるということを前提とする時は、私がいるということを主張する前に、私たちのお母さん、お父さんがいると主張しなければならないのです。それが正しい定義です。お母さん、お父さんをのけ者にして私がいるという主張は、愚かな主張なのです。

 人間は第一の原因的存在ではありません。第二の結果的存在だというのです。ですから私がいるということを語る前に、お母さん、お父さんがいることを語るべきなのです。このように見れば、根本に帰って宇宙の根本となる神様という問題を、根本的に、一番最初に解決しておかなければならないのではないかというのです。

 お母さん以上、お父さん以上、先祖、先祖と言って上がっていけば神様になるでしょう。このような論理を追求すれば、私を主張する前に神様を決定しなければなりません。神様はどんな方だ、彼は私のお父さんだ、そのお父さんはどんなお父さんだということを。それで私たち統一教会はこれを教えてあげるのです。

 本然の出発点を正しくつかめ、正しく求めよというのです。人間は結果的存在なので原因の起点にもっていって合わせろというのです。原因の起点に合わせますが、その起点が盲目的起点になってはいけません。神が人格をもっているので、人格をもった人間においても知情意のすべての良心的作用の内容を持ち合わせているのです。ですからその動機も原因的内容以上の動機でなければならないというのです。それでいて絶対的でなければいけません。一度出発したものが誤ったなら、永遠に是正することはできません。


  二) 人間が生まれた本然の目的


 神様は宇宙の第一原因であられ、森羅万象の創造主です。そして私たちの愛するお父さんであられます。神様は特別なみ旨を成し遂げられるために万物を創造されたのであり、その目的は正に愛の具現にあります。神様は真の愛の根源であられますが、どんなに全能な神様であられるとしても、一人では決して愛の喜びを感じることができません。

 神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が帰ってくることを願っていらっしゃいます。その対象としての最高の被造物が、正に私たち人間です。そのような理由で人間の生命には目的があるのです。人生の目的は成熟し、神様と永遠の真の愛の関係を実現するところにあるのです。正にこれが、神様と人間の間に平和をつくり上げる根本原理なのです。

 豊かに生きることも重要で、何かをすることも重要ですが、まずは縦的な天の父母の前に孝の道理を立てなければなりません。縦的天の父母の前に忠の道理を立てなければなりません。縦的な天の父母の前に聖人以上の道理を尽くさなければならないというのです。それが、人間が生まれた本来の目的です。また、そのような人に出会うために神様が人を造ったのです。そのような目的があるというのです。

 人生が真実に行く道とはどこでしょうか。人間はどこから生まれたのでしょうか。愛から生まれました。人生はどんな道を行くべきなのでしょうか。愛の道を行かなければなりません。どのように死ぬべきなのでしょうか。

 愛のために死ななければならないという結論が出てきます。その愛とはどんな愛でしょうか。大宇宙が歓迎することができる愛です。小宇宙ではないというのです。神様が公認し、天使世界が公認し、万物が公認し、すべての人が公認し、私たちの父母が公認することができる大宇宙の中で生まれ、その中で生きて、その中で愛し、その中で死んでいくことが、人生の目的だと見るのです。

 愛は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様はお父さん、私は息子……。人生の究極的な目的は、父を訪ね、切ることのできない関係を結んで喜びを感じることです。

 先生はいつか、道を行く途中で年を取ったおじいさんと話をしたことがありました。そのときおじいさんに「どこに行かれますか」と尋ねると、「行くって、どこに行きますか。うちの息子の家に決まってるでしょう」とおっしゃいました。「そうですか。行って何をされるんですか」ともう一度聞いてみると、「くれる御飯を食べて、たまに鶏でも出してくれるなら鶏もおいしく食べるんだよ」と言うのでした。また「それなら食べたあと、何をされますか」と聞いてみると、「食べたあとは特にないよ」と、このような答えでした。私たちの人生を、このように送ってもいいのでしょうか。

 家計の帳簿を整理するときにも、収入がいくらで支出がいくらかを正確に決算します。このように帳簿を整理するときにも、収支計算を徹底してやるのに、皆さんの人生はどうですか。一生の間生きたことを収支決算してみましたか。赤字ですか、黒字ですか。赤字ならば地をたたいて痛哭しなければなりません。

 人は死ぬ場において、楽しく歌を歌って死ぬことができなければなりません。ところで、死を前にして生きようともがくことは、赤字の人生だという証拠です。私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字の人生を生きなければなりません。

 人間は誰のために生きるのでしょうか。「私のために生きます」と言えば落第です。自分のために生きる人の前に家庭が存在することができますか。希望の家庭がないのです。国が存在することができますか。国は出てきません。そこに世界が存在することができますか。世界が存在することができません。世界が出てくることができる場がないのです。天地の公約は「この個人主義の悪党よ、立ち去れ」と制止するのです。個人を第一とするのに、そこに家庭が入ることができますか。そこにある理想的な国が入ることができますか。錐の先のような狭い所に入ることができるかというのです。どんなに入ろうとしても、入っていくことができないというのです。

 皆さんは愛を知らなければなりません。すべてのものが移動する目的、存在する目的は、愛だというのです。愛を求めて動き、愛を求めて存在しているというこの鉄則を、皆さんはいつももっていなければなりません。鳥たちがお互い好きになり、チュッチュとさえずりながら飛び回ることも愛ゆえであり、磁石のプラスとマイナスがお互い合わさることも愛で一つになるためだというのです。人がみな誰かに会おうとするのも一つになるためなのです。


  三) 愛のために生きる


 人生はどのように生きるべきでしょうか。人間はどこから、なぜ生まれ、どのように生きていくべきでしょうか。簡単だというのです。愛(神様を中心とした)ゆえに、愛によって生まれたので、愛の道を求めて、愛の目的地に行くのです。そうすれば循環法度上で、永遠に回ることができるのです。愛は永遠の概念なので愛を求めてこの中心に来るのです。それは愛でのみ成立するのです。

 私が一生の間生きるのは、私のために生きるのではありません。神様の愛のために生きるのです。その目的のために移動し生きるというのです。それがどれだけ素晴らしいことでしょうか。そのように生きる人は絶対滅びないのです。そこに大変なことがあり、涙もあり、時には悲惨なことがあったとしてもそれは神様の愛ゆえなので、悲惨ではなく、悲痛でもなく、悲しみでもないというのです。その原則を知らなければなりません。

 私たちは何のために生きるのでしょうか。絶対的な真の愛、真の愛のために生きましょう! ここにすべてが入っているのです。ですから私のポケットにあるハンカチも愛のためにあり、私が仕事をするのも、汗を流すのも愛のため、真の愛のためにするというのです。私が話すことも真の愛のため、食べることも真の愛のため、遊ぶことも真の愛のため、すべてがそうだというのです。

 人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が合わさった目的に向かって進んでいかなければならないのです。

 そうすれば、どの目的が最後に残るでしょうか。個人を主としたものは流れていくし、家庭を主としたものも流れていくし、団体を主としたものも流れていくし、国を主としたものも流れていくし、世界を主としたものも流れていくのです。しかし一番最後まで残る一つの目的があるとすれば、それは神と人間が共同で追求する目的です。そのような目的だけが、人間の歴史の最後にまで残ることができるものなのです。

 皆さんの心が最後に安着することのできる終着点とはどこでしょうか。神様を求めて自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとしません。心の最後の終着点は、神様を占領し、神様の愛を占領する所です。ですから皆さんが神様の愛を占領することができなければ、万事がむなしいのです。

 人生の最後の目的は、神様を中心として天の中心たるその方と出会うことではありません。その方と一緒に住むことが問題となります。その方と会うのにどのような場所で会うか、生きるのにどのような場所で生きるのかということが問題です。その方とは中心の場所で会って、中心の場所で生きようというのですが、その中心の位置は神様の愛の位置なのです。ですから人類の良心が指向する最高の目標は、天運に従って神様と一致して、神様の愛を私のものにしようというのです。結論はそれです。

 人間が最後に到達したいのは、最高であられる方の愛の対象者になることです。その最高の方とは誰かというと、私たちの父であられると同時に、神様だというのです。

 本来人間の特権は、誰彼問わず、天上王国世界において皇太子として生まれることのできる権威をもっているのです。お姫様として生まれることのできる権威をもっているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威だったのです。

 心情が通じるようになれば、みんなが神様の子女になります。文化の背景や歴史的環境、あるいは時代の位置いかんによって人間の価値が左右されるのではありません。そのいかなるものをもってしても人間の価値を決定することはできません。人間が天を知り、地を知り、天の目的と地の目的と人間の目的を知るところにおいてのみ、人間の価値が決定されるのです。

 私たちは新しい価値観を模索して、それを中心としなければなりません。世界に対する新しい価値、人間に対する新しい価値、理念に対する新しい価値、あるいは愛に対する新しい価値を模索しなければなりません。その価値観が神様のみ意と一致することのできる内容をもって出発するとき、その価値観は人間を中心とした価値観とは母体が異なるのです。人間の意志を中心として立てられた価値観とは異なるのです。

 今日、この世界において確実な価値観をもたなければなりません。世界観を越えることのできる価値観をもたなければなりません。私たち統一教会は、その価値観の中心を神様においているのです。私たちの主張する世界に帰ろう、理想世界に帰ろう、ではないのです。神様に帰ろうというのです。

 神様に帰らなければ理想世界もないのであり、幸福な世界もないのであり、永遠な世界もないのであり、愛の世界もないのです。そのすべての幸福の要因、私たちが願うすべての要件は神様によって始まらなければならないからです。それゆえ、神様に帰らなければならないのです。これを懐かしがり、これを求めてきたのが、人類歴史上に現れた宗教という機関だということを知らなければなりません。

 私たち統一教会は絶対的な価値観を提示するとともに、真の御父母様を提示しています。私たちが願う絶対的価値の基準は、どこが終着点なのでしょうか。真の父母の息子、娘になるところです。永遠の生命をもつことができ、永遠の愛をもつことができる神様の息子、娘になることです。そのほかには道がありません。

 アダムとエバが堕落するとき、神様が許諾したところで相対理想を結んだのではありません。自分たちが勝手にやったのです。神様が許諾して関係をもって出発することができるのは父子の因縁しかありません。ところが、それが壊れたので、没落したので、それを標準にし、もう一度継ぎ当てしなければなりません。


三 人間の価値は偉大である

  一) 人間の価値は神様的価値


 人の価値は、どのくらい大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年懐かしがることができる存在が人間です。統一教会の文先生が見ると、これが宇宙の根本だというのです。これが内外関係になったので、縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になれば、縦横の愛の世界観が広がるのです。その中心には神様が臨在されるのです。心の深い谷間の位置で一つに固く結んであげることができるその場は、縦横の中心地です。これを結んでおかずしては縦横の基準が愛の理想型として出てこないのです。ですから人を、このように造らずにはいられなかったということを皆さんは知らなければなりません。

 神様は絶対的な創造の観を所有した絶対者であられるので、絶対的な対象としての価値のある存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中の何をあげても換えることのできないものです。

 価値的に見るならば、相対的存在とは神様をあげても換えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが。相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様をあげても換えることができないのです。神様をあげたところで神様一人になるというのです。神様として残ってしまうのです。

 ですから神様自身を投入して、神様自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をされるのです。ですから、神様をあげても換えることのできない価値的存在として造ったものが人間なのです。これと同じように、絶対的価値の存在が人間だということを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的存在として人間を造られたのです。

 神様は、人間を愛のために造られました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛のために造られたのです。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。

 人は誰に似ましたか。神様に似たというのです。ですから神様が愛を願うことも、結局人と同じだ、とこのように見るのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状として現れ、形状の表示が象徴として現れるのです。統一教会の原理は、そのように言っているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状となるものも自動的に喜び、形状となる存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるのです。そのような作用を何がしますか。愛のみがするのです。

 神様が、愛を求めていく対象を造ろうとするとき、誰に似るように造るでしょうか。神様に似るように造るのです。その神様に似るように造るなら、神様の中にあるもののように男性の性稟がなければならず、女性の性稟がなければなりません。自分に似たので自分の本性相からすべて抜き出して、見えない性相、見えない考えの形態を実体として展開させたものが人間だというのです。ですから聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形状のとおりに人間を創造したという言葉は正しいのです。

 見えない神様の形状を、私たちの体中に象徴的にすべて投入したというのです。目は、誰に似たのですか。神様です。ですから顔の真ん中を見てみると、目は深い所にあるのです。そうでありながら、すべてのものを観察するというのです。その次に、鼻はアダムとエバを象徴するのです。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。ですから、四八、三十二(四×八=三十二)、三十二個の歯をもっているのです。この世の万物を中心として四数を中心として。その次に、耳は四方を象徴するというのです。この首の上は天の国です。天の国の情報センターがあるというのです。

 顔は、天地創造の主人が自分の形状をすべて取り入れて造りました。ですから、人の中には神様の性稟がすべて入っているのです。この目は何を象徴するかというと、神様を象徴します。ですから生物が生まれるとき、目が最初にできるのです。天地の中心は神様であられるので、目は神様を象徴するのです。ですからどんな人でも、その人の目は神様を象徴するというのです。ですからどんな人でも、その人の目を見ればその人が良心的な人なのか、非良心的な人なのか直ちに分かるのです。

 いくら真理だと言っても、その真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的な愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結されているのです。ですから万物を見て神様が分かるし、アダムとエバは神様の形状なので、アダムとエバを見て神様が分かるのです。なぜですか。アダムとエバは縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二つすべて完全にピタッと、男女の愛を東西南北を通して世界の軸をもっていって合わせるときには、神様と霊界が通じ、全世界がすべて通じるのです。

 皆さんは主体と一つにならなければならず、対象と一つにならなければならないということを知るべきです。主体と対象が一つになれば、繁殖が起こります。与え受ければ、必ず繁殖が繰り広げられるのです。その繁殖することができる場は、うれしい場なのです。神様自身も性相と形状の二性性相になっているでしょう。各自が一人の時は主体ではありません。男性と女性が合わさってこそ家庭の主体が成立するのです。二人が合わされば、主体になるまいとしても主体になるのです。

 人間たち自らが、神様の本然の愛を再現させることができる運動、神様を愛することができる運動、神様に接近することができる運動をしなければならないというのです。「汝の体と心を尽くして、主なる汝の神様を愛せよ」と言われた、それが第一の戒めだというのです。愛することが第一です。体と心を尽くして愛さなければならないのです。中間であってはいけません。終わりまで行かなければなりません。

 そうです、神様の形状が現れることができる真実な心、神様と一つになろうとするその心の本性が絶対的であり、それによってすべてのものの始まりと終わりだとすることができる境地に入っていかなければなりません。そのように愛せよ、ということが第一の戒めなのです。

 神様と人間が拍子が合い、和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の形のとおりに音律を合わせることができ、自分の形のとおりにすべて象徴的に、形状的にみなこうすることができる、そのような喜びの表示がそうだというのです。そのようになれば万物も、「ああ、私も生まれがいがあるなあ」と言うのではありませんか。例を挙げて話をするなら、神様と人間が愛の宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びを分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界のこの上なく小さい万物が願うことのできる所願ではないかということです。

 このすべての万物は、神様の息子、娘たちを造ることができる土台なのです。関係を結び、連結することができる土台なのです。動物もそうですし、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあるのです。植物世界にも全部雄しべ・雌しべがあり、動物世界も雄・雌があります。すべて橋を架けて、すべてのものが結集され創造された最高の傑作品が、人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させて男性、女性の性相を……。そのすべての形状を賦与して、象徴的、形状的、実体的にすべてさらけ出して橋を架けるようにして、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。

 それでは神様は、なぜ夜と昼をつくられたのでしょうか。毎日のように一日中お日様があれば、朝何の刺激がありますか。光明な朝だ、光輝く朝だというとき、光明がどのように光明で、光がどう輝くというのですか。おもしろ味がないのです。しかし、すべてのものは刺激のために、愛という課題を置いて、刺激的な象徴と形状でつづられながら調和することができる拍子をもっているのです。

 皆さんの生命の根は、どこにありますか。堕落していない父母にあります。では堕落していない善なる父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。

このように見るとき、私たち一般人たちが普通「天のお父様!」と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に「天のお父様、お母様」という概念が入っているというのです。


  二) 人間は神様が臨在される聖殿


 もし人間の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一つの体になって、神様と同じ立場に立ち、神様の創造の威厳を継承し、神様が創造後お喜びになられたのと同じ位置に立つことになっていたはずです。神様と人間の間で、そのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。

 アダムとエバは、神様の息子、娘であると同時に神様の聖殿です。彼らが共に成長し聖殿が完熟するように造られたなら、神様がアダムとエバの中に入ってこられるというのです。そして完成したアダムとエバが神様を中心として聖なる式を挙げれば、それは何ですか。神様と一つの体になるということです。神様は内的な神様になり、私たち人間は実体をもった神様の体になるというのです。

 皆さん、コリント人への第一の手紙第三章十六節を見ると「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」というみ言があります。信じて救いを受ける人も神様の聖殿になるのですが、本然の人類の真なる先祖の位置に進むその方たちにおいては言うまでもないというのです。

 神様が父になり人間は神様の息子になったとしても、父は上にいて息子は下にいる上下関係のような、そのような気分がするのです。そのとき私たち人間は、どのような考えをするのでしょうか。「お父さん、お父さんが座っていらっしゃったその席を、私に一度下さい。私もお父さんの席に座りたいです」という欲望が私たち人間にはあるのです。

 ここで神様が「おいこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし神様は、そのように言われないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっていることを知っているので「早く、そうしなさい。早く、そうしなさい」と言われながら、その位置までも私たち人間に下さるのです。その位置まで人間に下さって神様は私たちの心に臨在され、私たちの心を聖殿として、いようとされるのです。

 聖書には「私たちの体は聖殿である」とありますが、それはどういう意味か、解釈できずにいるのです。それは偉大な言葉です。いくら大きな神様だとしても、その神様と私が愛をささやくことができる愛の対象圏になり、その愛の対象圏と一つになれば宇宙を相続することができる権限が生じるからです。愛という原則基盤を通じて神様が造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、すなわち宇宙の相続権を獲得することができるのです。この驚くべき事実を知らないのです。

 アダムは実体をもった神様の体です。コリント人への第一の手紙第三章十六節にあるでしょう。あなた方の体が聖殿であることを知らないのかと。聖殿は神様がいらっしゃる所でしょう。私たちの心に本然の愛が芽生えるその場所を至聖所としているのです。ですからアダムの心に神様が宇宙的な愛の聖殿を造って愛の力を伸ばして、愛の花を咲かせようとするのです。これが、神様がアダムとエバを造り、家庭と世界に繁殖しなさいと祝福してくださった目的だということを知らなければなりません。

 一番神聖な所はどこですか。至聖所とはどこかというとき、エルサレムの聖殿が至聖所ではありません。人間が造ったそこが至聖所ではありません。神様が造られた愛がとどまることのできる所が最高の至聖所です。この至聖所を失ってしまったのです。ですから人間の罪がどれほど大きいでしょうか。

 神様が人間を造ったのは、実体の神様の体として造ったということです。コリント人への第一の手紙第三章十六節を見ても「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言っています。聖殿とは何ですか。神様の家だというのです。アダムとは誰かといえば神様の体であり、エバとは誰かといえば神様の夫人だったというのです。このようになっていたならば、その子供は神様の血統をもって生まれるのです。彼らが神様の血族になるのが原則です。

 完成段階に至った人間が霊界に行くと、どのようになりますか。アダムは神様の体になります。アダムは神様の体になるというのです。ヨハネによる福音書とコリント人への手紙に「あなた方は神様の聖殿である」と出ているのと同じように、神様が臨在することができる聖殿です。家です。神様とどのように似ますか。責任分担完成段階に至り、神様が臨在し一つになれば、愛によってすべての生命の結合、一体化が成し遂げられるのです。生命が和合するのです。男性、女性が家庭、夫婦を成すということは、愛を中心として一体となり、和合するということです。それと同じように、その愛の力は神様と和合するようになるのです。神様と和合するようになるということなのです。

 人間が完成して成年になれば、そのとき、見えない神様が入ってきて愛を造るのです。神様が好むと同時に、アダムが好む激動的愛を神様がすることができるというのです。それゆえ愛は最高の神聖な聖殿です。神聖の聖という字です。ですから真の愛の中には、どこでも神様が入っていらっしゃるというのです。なぜ人は真の愛を好むのでしょうか。真の愛にさえ会えば、神様がここにいらっしゃるというのです。主人がいるようになっているのです。ですからアダムとエバが成年になって愛するとき、アダムとエバの体は、この宇宙を創造した神様がその中に入ってきて最高の神聖な聖殿を築く神聖なところになるのです。

 エバとは誰かというと、アダムの妻です。アダムは、神様の実体です。「あなたの体は神様の聖殿だ」と言ったのです。神様は、アダムの心に臨在している見えないアダムです。この二つの父が一つになるのです。合一されるのです。そして霊的世界、無形の世界と有形の世界の合一の起点がアダムの本性的基準です。その本性的基準は何ですか。お金のふろしき、欲心のふろしきではないのです。

 純粋な思春期を通じてすべての細胞機能が総動員され、一つの触覚として、アンテナとして現れたその基準を中心として、神様がそこに臨まれるので席を設けて……。陰陽が調和し、合わされば互いに降りていくのと同じように降りてきて、警備兵のいるところ、基地を……。アダムの心の中に来て神様は内的父、アダムは外的な父として霊的世界と実体世界の和合、一体の基準で、一人の男性を中心として一人の女性を中心とした横的世界で一致を成し遂げ、愛を中心として球形の核が広がるのです。球形の核。

 コリント人への第一の手紙第三章十六節を見れば「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」というみ言があるでしょう。これが何かというと、神様の聖殿です。皆さんが神秘的な境地に入って祈祷しながら「神様、どこにいらっしゃいますか」と尋ねると、答えがとても素晴らしいのです。「ここにいる! なぜそのように大騒ぎするのか」とおっしゃるのです。

 「朝御飯を食べられなかったのか。夜遅く、なぜ大騒ぎするのか」と言うのです。「どこにいますか」と尋ねると、「どこにいるも何も、その深い心の奥に立っているだろう! お前の心の中にいるだろう!」と言われるのです。天国がどこにあると言いましたか。心の中にあると言いました。



四 人間本性の真なる生活

) 心に和合した生活をしなければならない


 自分の一番近い先生とは誰かと言えば、自分の心です。一番親しい友達よりも貴いものが自分の心であり、お母さん、お父さんよりももっと貴いものが自分の心です。心に尋ねてみるのです。その心には神様が入っていらっしゃるのです。その心の声を聞くことができなければなりません。その境地まで入らなければなりません。仏教には、自性を清めなければならないという言葉があります。「天上天下唯我独尊」とお釈迦様が言いましたが、それは何かと言えば、私が私に尋ねれば私に神様が入っていることが分かる、ということです。そのようになれば、できないことがないというのです。

 愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が百億あって、道端に出ていって全部分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。神様の心は、推し量ることができないというのです。神様の心がそうなのです。ですから自慢することができないというのです。いくら大きいことをやったとしても、心に尋ねると「もっとやらなければ」と、このように答えるというのです。

 自分の心を清めなければなりません。心を清めなければならないというのです。心が先生よりもいいのです。心は永遠の私の主人です。ですからよこしまな心をもつなというのです。公理に属した公的立場に立った心をもたなければなりません。

 ある人をさっと見れば、その人がどんな人かということを、心は一遍で分かるのです。すぐにもそれが分かるというのです。ですから一番近い先生が自分の心です。ですからその心を苦しめるなというのです。心を悲しませるなというのです。それは先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることです。心が私の生涯の主人です。ですから心を悲しませるのは、私の生涯の主人を悲しませることなのです。心が喜ぶことのできる道を行かなければなりません。

 心と楽しむ時間をもたなければなりません。世の中で見れば、寂しい立場のようですが、心と友達になる時間です。心と座って、瞑想でもしてみよというのです。深い祈りの境地に入るでしょう。人知れぬ深い世界に入るのです。そのようなものが必要です。


  二) 三位一体を成してこそ完成人間


 統一教会では三位一体を主張しています。それを何によって一体化させるのかといえば、正に真の愛を中心として一つにするというのです。観念と実在に対する問題も深く入ってみると、いろいろな背景があります。それを解明していけば、正にこの道が正当な道だということが分かるのです。それは、体恤してみれば証明されるのです。

 良心が正しい、行動が正しい、心身一体圏を成しているというとき、それは何を中心として言う言葉でしょうか。言葉だけではいけないのです。行動だけでもいけないのです。心身一体圏の決着点はどこでしょうか。「まず九〇度になりなさい。九〇度になるには、すべての世の中で水平として中心になることのできる基準を立てなさい。西洋に行っても東洋に行っても連結できる標準的な人間になりなさい。それで歴史的に現在と未来を通じて見ても、それは間違いないと言える基準にならなければならない」。これが結論です。

 人間の貴重な価値を満点にするのは、真の愛と一体になるときに可能なのです。心身一体とは、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを言います。音叉の周波数が同じとき、一方をぽんと打てばその反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心を打てば肉身が響くのです。真の愛によって肉身をぽんと打てば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育は必要ありません。その真ん中に入れば、教えるべきすべてのことが分かるようになっているのです。

 統一教会の勇士は、どんなことがあっても心身一体圏を成さなければなりません。この生涯の間に心身一体圏をどのように成すのでしょうか。それを成すことができない者が愛を考え、理想を考えるということは恥ずかしいことです。天運に反するのです。そのようなものを完成した自分自身を指向する、そこに新たな希望の道が連結されるのであって、ただそのままの基準においては新たな希望の天国に連結される道が現れません。

 心身一体をどのように成すのでしょうか。歴史を通じて心身が紛争しています。神様がそのように創造されたとすれば、そんな神様は人間の敵です。自分がそんな立場にいることをはっきりと知って、神様に「神様自体の心と体が人間のように争いますか」と尋ねたら、神様はどう答えるでしょうか。そんなことを考えてみた人がいますか。

 神様も人間のように良心と肉身が、心身一体できずに闘っているのかと聞いてみれば、神様は間違いなくそうではないと答えられます。皆さんは、そんな境地に到達したことがないので知らないかもしれませんが、統一教会の教主としては、そんな境地をいつでも連結できる道があるので、間違いありません。神様は心身一体となっていらっしゃるのです。

 宗教生活は体を主管するものです。三年ないし五年以内に習慣性をつくるのです。そうならないままでも、不便な自分を発見できないときには、心身一体をいくら願っても道がないのです。先生の第一目標は「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」ということです。自分自身の統一圏を成せない人がいくら世界を飛び回ったとしても、自分と関係をもつ道は絶対にないのです。

 人間の体はサタンの血統をもっています。皆さんの良心は、アダムとエバが長成期完成級に成長するときまであった神様の良心の基準まで成長しなければなりません。それは信念です。それと反対の愛の力によって、この良心以上の力によってサタンにだまされてしまいました。良心も肉身の方向に従わざるを得なかったのです。

 良心のほうにもっと力を与えなければなりません。ずっと多くの力を与えれば、肉身がいくら強くてもついてこざるを得ないのです。そうでなく良心が肉身より弱ければ、現在の状態よりももっと下に落ちることになるのです。この二つの道しかありません。それで断食とか水行をして犠牲と奉仕をするのです。それ以外の道はありません。

 皆さんそうですか。この道を歩んでいますか。死んでも犠牲と奉仕をしようと誓いますか。それで死ぬ覚悟をして反対の道を行かなければならないのです。宗教の行く道、それは克服の道です。心身が闘うそれ以上の克服の道なのです。その道を行かずしては心身一体を成すことができないのです。

 統一教会に入って長くなったからといって、罪を埋めていてはいけません。それを清算しなければなりません。手続きを踏んで清算しなければならないのです。私の生涯のすべてのものを白紙化させて、そこから新たに復活してエデンの園で罪を犯さず、神様が造られた心と体が完全に真の愛と一つになることのできる本然的な私だ、と自覚できる男性と女性にならなければなりません。分かりましたか。

 そうでなければ故郷へ行くことはできません。皆さんは故郷の家を訪ねていかなければなりません。そこには神様がいらっしゃるのです。神様がいらっしゃり、本然的父母がいらっしゃり、本然の私たちの家があり、皇族圏生活を中心として万国を治めることのできる長子権国家の後孫たちが住むべき所なので、そこが新しい私の故郷の家です。自分が生まれたその故郷ではなく、新しい私の故郷の家、本然の家を訪ねていくにはどうしなければならないでしょうか。その故郷に入ることのできる資格を備えなければなりません。そうするには私自身が心身一体となり、統一圏を備えなければならないということを知らなければなりません。

 いくら良くできなかったとしても「神様、私はこのように良くできませんでした」と、このように率直でありなさいというのです。そのように祈祷しなさいというのです。「本然の心がこうで、父の心がこうで、師の心がこうで、国の民の心がこのようになるべきではありませんか。このような心を神様の愛と連結させようと、忠孝を尽くす私の心は変わらないでしょう。このような心を哀れに思い、きょうのこの心の前に、すべてのことを許してくださることはできませんか」と言えば、神様が「うんうん」と言われるのです。祈祷する方法も知らなければなりません。分かりましたか。

 神様は、いったいどこにいらっしゃるのでしょうか。神様が住まれるところは、いったいどこでしょうか。神様は最も価値のある愛に定着します。それならこれが男と女の二人だとすれば、神様はどこにいるでしょうか。神様は一体化し、変わらない、統一された愛の最も底に、垂直に住んでいらっしゃるのです。これが何かと言えば、男性と女性が一つになったところ、それが中心点になるのです。皆さんが神秘な祈祷の境地、霊的体験圏に入って「神様!」と言えば、おなかの中から「どうして呼ぶのか。ここにいる、ここ!」と答えます。「ここ」というのは自分の心の中です。心身一体となった愛の中心点、垂直の場にいるのです。神様の点を垂直と見れば、これをゼロ点というのです。

 心身一体となれば、宇宙の力が保護してくれるのです。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟……。みな因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。それで国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成せばそこでも通じるのです。どこでも通じるのです。サッカーをするとき、ボールが転がっていって止まったらどうなりますか。その表面全体が合わさることができるところは垂直線を通るのです。それで球形体を理想的な存在だというのです。表面のどんなところでも、その垂直線が安着できるのです。それで転がっていくのです。どこでもみないいので……。それで心身一体圏、九〇度の角度になればどこでもみな合うのです。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人もどこでもみな合うのです。


  三) 心が正に師であり近い神様


 心とは誰でしょうか。私の主人です。私の先生です。心は誰かと言うとき、心に似た体を生んだので、私の体の根源です。ですから平面的にお母さん、お父さんの代わりです。心は父母の代身であり、師の代身であり、その次は主人の代身です。

 皆さんの心は、師が必要ありません。心は第二の神様です。師についていかないで、統一教会の先生に侍らないで、皆さんの心に侍りなさい。心はどうですか。朝早く起きて一人、ねずみの子の音も聞こえず、はえの音も聞こえない静かなときに、「ああ、私はこんなことをしなければ。いいことをしなければならない」と言えば、心が「うれしい! うれしい! 早くしろ!」と言いますが、悪いことを考えれば、心が「こいつ!」と言うのです。心が分かるでしょうか、分からないでしょうか。分かるのです。そうだというのです。心はよく知っているのです。

 心の価値、私にとって心がどれほど高いものかを考えてみたかというのです。心は体が間違ったところへ行こうとすれば、いつでも忠告し、こうしてはいけないとみな制裁するのです。しかし体はいつも心を攻撃し、無視し、踏みつけて、自分勝手だというのです。迫害を受けながらでも死ぬときまで私にとっての戦友のように、師のように、主体的使命を全うすべく犠牲を払っていくのが、私たちの体についている心だ、ということを考えてみたかというのです。

 人間の主人は、正に自分の良心です。この良心がどれほど皆さんのために忠告し、昼夜を分かたず悪い考えをすれば「おい、こいつ!」と言って、疲れずに引っ張って峠を越え、川を渡ろうと、どんなに気をもんだことでしょうか。このように心は真の主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切った体、一つしかない宇宙から貴い師として賜り受けた先生であるにもかかわらず、この先生を手荒にあしらった体、また私の本然の愛の心を引き継いでいけるようにした父母の代わりに送ってくれた良心を余地なく蹂躙したこの体、このように心の怨讐となったこの体を皆さんは愛しますか。いいえ!

 もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は過ぎ去りました。どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の心の声を聞き、聞いてもまた聞きたくて、その心を求めていくべきです。そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。

 良心が体のために、どれほど犠牲になったことでしょうか。一生の間蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。昼も夜も私を管理するのにくたびれているのが良心です。それでも疲れずに体が悪い行動をしようとすれば、やめさせようとするのです。「そんなにやったのならもうやめなければならないのではないか。私の言うことを聞かなければならないのではないか」と、そう言うでしょう。自分の前に一番近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし体には教育が絶対必要です。

 私が一つ聞いてみましょう。皆さんの心と体を中心として見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は神様の代身です。心は烈祖(功績のある先祖)、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は王を代表するのです。ところがこれまでこの心をどれほど蔑み、手荒にあしらいましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にいる、真の愛をもった主体としていらっしゃる方の代わりにあるその心が、この地上において私一人を収拾するためにどれほど犠牲になったことでしょう。そのように犠牲になりながらも不平を言いますか。

 ただぞんざいに扱われ引っ張られて回りながら、死んだと思っていたのに、悪い考えをもって夜中にどろぼうでもすれば、「おい、こいつめ!」と再びよみがえって忠告するのです。皆さんは、そのような心をどれほどもてあそびましたか。心は父母の代身であり、心は師の代身であり、心は主人の代身です。心の世界には公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりももっとよく知っています。第三者、証人が必要ないのです。

 私自身に偉大な師がいることを知りませんでした。心は偉大なお母さん、お父さんの代身なのです。お母さん、お父さんが心に逆らって訓示するはずがありません。心がお母さん、お父さんのように訓戒するとき、服従することを知るべきです。このようなすべての秩序的環境において、起源になり得る道義的な結論が出ていません。そのような公式が出ていないというのです。心を虐待してはいけません。皆さんは二重人格が好きですか。心は先生の代身、父母の代身、神様の代身です。心を教えることのできる師はいません。

 すべての人間は、それぞれ自分の中に最も貴い師を一生の間ずっともっているのです。にもかかわらず、その師を間違って待遇し、踏みにじり、濫用します。その師が、正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にもためになるように言葉を語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神様のみ意に従って行動するように導いてくれます。しかし各自の心の中にはまた、良心の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が、まさしく肉体なのです。

 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」というのは、道義の道を開拓したときの標語でした。「宇宙主管を願う前に、この世の万事と何らかの関係をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。貴重な三大お客さんです。主人になることができ、師になることができ、父母になることができるこの方を、私の体が千年、万年仕えても不足だという自分自身を発見するときに、初めてここに天運が臨むのです。心は体のために生きたがるのですが、体は心のために生きません。これが問題です。問題は私自身にあるのです。社会にあるのではありません。

 このように心は、真なる主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切ったこの体、宇宙から賜り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この先生を余地なく手荒にあしらったこの体、また私本然の愛の心を引き継げるように父母の代わりに送られた良心を余地なく蹂躙したこの体……、このように心の怨讐となったこの体を皆さんは愛しますか。いいえ。心と体の闘いをやめさせる前には天国はないのです。どの聖人もこのようなことを考えませんでした。

 陰と陽、性相と形状というプラス・マイナスは、相対的であって、相反することができません。しかし今日、堕落した人間には心の声もあり、体の声もあります。心と体が一つになっていません。神様に似て生まれるべき男性や女性の心と体が、どうやって分かれたのかというのです。これが問題です。神様は絶対的な方なので、私たち人間においての標準相である心と体が絶対的に一つになって、神様の全体世界に和合し、一つの中心的な役割をすべきなのにもかかわらず、私たちの心と体がどのように分かれたかというのです。心と体が分かれたのが、心のままになされたことなら、神様はいないのであり、理想や統一や平和や幸福といったものの基地を見いだすことができません。

 神様は遠くにいるのではありません。私の中にいます。心が皆さんの主人でしょう。夜にただ悪いことをしようとしても、現れて「行くな」と言い、いつでも現れて主人の役をして、どこででもお母さんのように、先生のように教えてくれるのです。ですから、この体のやつが怨讐です。体が怨讐だというのです。

 神様は誰に似ましたか。私たちに似ました。男と女。皆さん、心は見えないでしょう。心を見たいですか、見たくありませんか。神様も同じです。神様が霊的な立場から見れば……。神様も体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されなかったので、体が今までなかったというのです。心のような宇宙に、心のような主人、心のような師、あるいは管理者、心のような父母としているのです。

 皆さん、心と体が一つにならなければ駄目なのです。そこに焦点を合わせなければなりません。祈祷するとき、心と体が呵責を覚えるものがあれば、悔い改めなければなりません。悔い改めるときは一人ではいけません。東西南北を備えなければなりません。自分の一番近い人、父母の前に通告しなければなりません。師の前に通告しなければなりません。その次に、自分の息子、娘に、自分の弟子に通告しなければなりません。「私にこんなこんなことがあるのだが、許してもらえるか」と、こうして心を合わせて後援することのできる、このような道を行かなければなりません。何のことか分かりますか。

 心と体がいつ統一できるのか、それを考えなかったでしょう。これが深刻な問題です。一生の間心と体が闘うのですが、この闘いをやめさせる者は誰でしょうか。これが問題です。私たちのお母さん、お父さんもやめさせられません。王もやめさせられません。師もやめさせられません。聖人もやめさせられません。この心と体の闘いをやめさせられる主人は、どこにいるのでしょうか。深刻に求めてみましたか。それが真の愛だというのです。真の愛。

 心は、皆さんの番人となって昼も夜も皆さんを守ってくれ、皆さんに休みなく「善なることをしろ。善なることをしろ」と言うのです。ですからどんなに疲れるでしょうか。生まれたその日から、意識的に考えることができ、社会環境においてすべての制度を分析できる知能的起源が生じるその日から、生涯をついて回るのです。

 自分の師もついていくことはできず、お母さん、お父さんもついていってくれませんが、生まれたその日から死ぬ時まで、永遠に良心は私に対して命令するというのです。神様に似なさい、聖人に似なさい、愛国者に似なさい、孝子に似なさい……。それと同じように似ることを願うのですが、「体よ、お前は私に似なさい」と言うのです。

 皆さんの心と体の統一も、真の愛でなければできません。ですから心は、体のために犠牲になりながらも忘れ、また忘れ、また忘れるのです。心は、神様の代身としての立場なので、皆さんの師の中の師です。その心は神様が御自身の代わりに送ってくれた私の中心です。縦的な私です。


五 真の人間が行く道

  一) 人間が求めて行くべき道


 本性の心が行く道を行けば、宇宙が一つに広がります。そのような何かがなければなりません。そのような境地に入れば、自分の心と話をするようになるのです。そのような境地では、心と話をするのです。何かをしようと思えば、既に答えが出てくるのです。そのような境地まで進むのです。そのような境地にいる人が、自分の行く道が分からないでしょうか。もう行く道が確実で宇宙のすべての作用の力が助けるのです。手を引っ張って試験場へ入れば、既にすべてのものが協助するのです。そうしてこそ大きいことができるのです。

 偉大な力の背景をもって生きることのできる人間が、真の人間です。真の人間にはそのように無限の力のバックグランド(背景)があって、自分が指向する方向に無限に後押ししてくれるのです。方向が間違えば、すぐに分かるというのです。統一教会は、皆さんがいい加減に知っているような統一教会ではありません。深い背景、偉大な力のバックグランドをもっているのです。ですから皆さんが努力をしてこのような境地を連結して上がれば、すべてのものがみな解決されるのです。ですからそのような面で、皆さんが行く方向感覚を決定しなさいというのです。それは自分がしなければなりません。自分が一番よく知っているのです。

 自分が行く道を求めていかなければなりません。お金さえもてばすべてでしょうか。そうではありません。お金が必要なときがあり、また人として自分が行くべき、他の道を行くべきときもあるのです。ですから、自分が行く道は自分が決めなければなりません。自分自ら、自分の深い心の底から本来自分がもって生まれた本質と共に和合して、未来の目的を指向することのできる、天があれば天がその方向を提示するようにして、自ら解決するようにしなければなりません。

 磁石は地球の引力を凌駕した作用として現れるようになっていますが、そのような作用は何によって可能なのでしょうか。地球の重力以下の作用として、その作用を越えるというのです。ですから私たちの良心も同じです。生まれたなら、既に自分が生まれた背景がさっと分かるのです。これは自分が判定しなければなりません。そのようなものを感覚、判定できなければ、皆さんは将来大きいことができないというのです。(一二〇・三〇二)

 私たちが自然を見て「ああ、私は四季が必要ない。私は春だけ必要であって、夏や秋や冬は嫌だ」と言うかもしれませんが、神様に尋ねてみると「私は四季がみな好きだ」と答えるというのです。ですから嫌いでも夏を好むことを習わなければならないし、秋と冬を好むことを習わなければならないというのです。雪が降る冬になれば、神様は白い雪が世界的に積もるのを見るとき、喜ばれるのです。「ああ、私もいい」と言うのです。そうでなければなりません。

 神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起こり雷が鳴ったりするときは、「ああ、あれは私は嫌だ」と言うなというのです。神様は「ほほ、あれはキスして結婚するのだな」と、このように考えるというのです。そして「嫌いだ」と言う人たちに、「はははは、おいこいつ! ならず者たちよ!」と言うのです。

 人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「あ、私は白人だけ好きだ」と、神様がそう言うでしょうか。それならみんな白い服だけを着なければなりません。白人たちはみんな白い服だけを着なければなりません。色のある服は全部捨てなければなりません。

 黒い服をなぜ着ますか。色のある服をなぜ着ますか。それは矛盾です。部屋に入れば、色とりどりのものがみなあるのに、ピアノなどもみな真っ黒ですが、どうして置いてあるのですか。黒板のようなものもどうしてもってきたのですか。その人たちには夜もあってはなりません。夜もあってはならないというのです。真っ黒な夜もあってはなりません。どうしてそうですか。白人中心ですか。白人中心が何ですか。それは、滅びる道です。滅びる道。それが何年も続くと思いますか。どれほど続くと思いますか。冬がいくら長くても三カ月しか続きません。永遠のもののために皆さんは、四季をみな愛さなければなりません。ですから白人だけ好んではいけないのです。

 神様の愛は、神様のすべてを愛し、人類を愛するだけでなく、過ぎ去った過去、現在、未来の人類を愛してあげる愛です。ですから地獄へ行った霊人たちまでも解放してあげる運動をする神様だということを知らなければなりません。人は真理の道を行かなければならず、生命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければなりません。いくら偉大だとしても「ため」に生きる基盤がなければ、すべてのものがついてこないのです。このように生きる人は自然に主体になります。真の生命の人になるのです。

 皆さん自身が、自分がどんな道を行くべきかを知って、行かなければなりません。方向をすっぱり決めたならそれを中心として、ありったけの精力をみな投入するのです。疲れて目を開けることができないほど、耳が聞けないほどに、すべてを投入しなければなりません。

 統一教会で正常的な信仰生活をすれば、自分が何をすべきかすぐに分かるようになっているのです。しかし自分を中心として生き、自己の考えを中心として行動する人は分からないのです。船にいるねずみの子でも、波打てば船が破損することを知り、すぐに縄をつたって船が出る前にみな港の荷下ろし場へ出ていくのです。それなのに、人間にそれが分からないはずがないというのです。

 自分が行く道を知らなければならないというのです。ありも、梅雨になることがみな分かるではないですか。ありが引っ越しするのを見たでしょう。行列をつくって。意味のない空想でもしているので分からないのでしょう。自分が自分の分野を知らないという事実は深刻なことです。深刻に重要な一生の問題を天と共に話し合うべきです。そして自分自ら環境的与件に適応しなければなりません。それを誰がしなければなりませんか。それはいずれにせよ自分がしなければならないのです。

 人は冷静になれば、心の深いところに心が落ち着く場があるのです。心が眠ることのできる場があるのです。そこまで私の心が入らなければなりません。そこで寝て、目覚めるときには鋭敏だというのです。そのときに雑多な考えをせずに精神を集中すれば、すべてに通じます。ですから修養が、祈祷が必要なのです。

 先生も祈祷するのです。精誠を尽くすのです。いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は一度だけ尽くして使ってしまうものではありません。刀は常に研がなければなりません。刀を一度使って研がなければどうなりますか。いつも研がなければなりません。一度激して怒ったならば、いつも磨いておかなければなりません。それが問題です。静かに心の位置をつかまえておかなければならないのです。

 心情の世界の中央に行けば、下がったり上がったり運動するのです。自動的に運動するのです。これが息をするということです。地球も息をしていることを知っていますか。地球も一メートル近く息をするのです。こうしながら調整しているのです。円形によって曲がったところを調整するのです。ですから心情の世界も、中央はすべて軸を中心として上がったり下がったりするのです。運動するのです。

 すべての存在物は楕円形で形成されたものです。ですから心の、心情の中心、真ん中に入ってみよというのです。そこで無限の力が伝わるのです。それで九〇度の角度さえつくれば、無限な力を九〇度で保つことができます。それで道を磨いていかなければなりません。精誠を尽くしてこの世のすべての面で、深い心霊世界を体験しなさいというのです。なぜでしょうか。一生の間生きていくのに推進力を無限に普及されることのできる一つの源泉が必要なので、そのようなことをするのです。

 先生も、先生自身が今もっている力よりももっと大きい世界的な仕事をするときは、深刻だというのです。もっと大きい力が必要なときは、それをどこからもってくるのかということが問題になります。もってこれないときは、それをどこから補うのかが問題になります。もってこれないときは後退しなければならないのですが、そうすることはできません。ですから祈祷が必要であり、神様が必要なのです。

 心情の世界が、それで必要なのです。愛の世界は、いくら引っ張り出しても終わりがないのです。物質の世界も終わり、知識の世界も終わり、権力の世界もすべてが崩壊し得るのですが、心情の世界は無限なのです。ですから心情の世界を中心として動かさなければなりません。

 神様は独裁者ではありません。神様も人間のために投入しました。そう、神様が人間の前にいるのは、「ため」に存在するのです。ですから千年、万年神様についていこうとするのです。「ため」に生きる天理の宇宙の存在世界の前に自分自らの存在位置を維持するためには、「ため」に存在しなければなりません。「ため」に生きることが東洋、西洋に通じることができ、古今に通じることができるのです。

 神様は昔も今も東洋にも西洋にもみな同じ愛をもっているので、東洋、西洋を克服することができ、過去、現在、未来を克服することができるのです。それは何かと言えば、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展できるし、東洋、西洋を克服するので、東洋、西洋を統一できるというのです。これは愛でのみ可能なのです。

 自己主張するときは自己破壊、相対破壊、神様破壊、完全に分離されるのです。そこでは統一的理論を発掘できないことを知らなければなりません。簡単な言葉ですが、重要な言葉です。私たちが理想を求めていく最後には、究極には神様の愛と縦的な統一を要求しますが、その縦的基準が早く来いと繰り上げることのできるようにするためには、互いに「ため」に生きなければなりません。「ため」に生きるところから完全に統一圏が広がるのです。

 どのように統一されるのでしょうか。先生がどのように統一するのでしょうか。何によって? こぶしによって、力によって、お金によって、権力によって、知識によって? 愛を中心とした「ため」に生きる立場で万事が解決するのです。結論は簡単でしょう。真の愛を中心として「ため」に生きていくところに、悪魔の世界が天の国へ再創造されていくという結論です。それは理論的です。


  二) 真の人間の行く道


 自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。これを知るべきです。全体のために行くところは、すべてのものが門を開くのです。個人も門を開けるし、家庭も門を開けるし、氏族も門を開けるし、民族も門を開けるし、世界も門を開くし、天の国も門を開くし、愛の道や、すべての道が門を開いて歓迎するというのです。

 そのような道とは何でしょうか。これを私たちは考えなければなりません。それで統一教会はこのような観点で「ため」に行く道を取れ、「ため」に生きよ、と「ため」に生まれたという天理を教えるのです。

 真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことは「ため」に生きよということです。これはどこでも通じることのできる原則ですから、万古不変です。過去、現在、未来がないので「ため」に生きよというのです。ここに孔子やイエス様やお釈迦様やマホメットのようなすべての聖者という人の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言えば、「そのとおりです」と言うでしょうか。「それは違います」と言うでしょうか。「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きることのできる一つの法だということを知るべきです。このような真の道があるのです。

 世界的な人物になるためにはどうしなければならないでしょうか。人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては国を越えることができません。国を越えることのできるそのような内容は天にあるのです。天宙思想をもたずしては国を超越できないのです。ですから聖人たちが何を紹介したのかといえば、人間だけを紹介したのではなく、神を紹介しました。聖人の等級に同参した人々を見れば、神を崇拝しましたか、しませんでしたか。神を抜きにして聖人になった人がいますか。また聖人たちは人倫の道理だけ教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。

 家庭で父母に尽くし愛する人は孝子です。国のために生き、愛する人は愛国者です。世界を愛する人は聖人です。それでは、先生が教えるものとは何ですか。神様と世界と宇宙を愛する聖子になれというのです。皆さんはどんなものになりますか。聖子になりますか。孝子、孝女になりますか。そうなるには神様のような愛を心にもたなければなりません。

 神様は、短い生涯を生きて死んでいく人間の前に、一番良い標語、一番良い課題を賦与せざるを得ないので、その課題として「誰よりも神様をもっと愛しなさい」という標語として掲げたというのです。それによって誰もなることのできない神様の息子になれるのです。神様の息子になる日には、聖人完成はもちろん、忠臣完成ももちろん、孝子完成ももちろんなのです。すべてのものが完成だというのです。このようになれば、家庭でも勝利した立場に立つのであり、国家的基盤においても勝利者となるのであり、世界的基盤においても勝利した者となるのです。


 統一教会は何をしようというのでしょうか。偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それゆえ偉人が神様の前に出ていくとき、「お前はお前の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は神様の前に直行できるのです。統一教会は何をしようというのですか。偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか。

 宇宙を造った神様とは、宇宙の法度を立てた神様とはどんな方でしょうか。全宇宙を通じて、誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に出会うには「ため」に生きなければならないのです。その方は知識の大王でありながら、「知識をもって神様の前に来い」とは言いません。能力の大王ですが、「能力をもってこい」とは言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもってこい」とは言わないのです。「ため」に生きてくれば、すべてがついてくるというのです。


  三) 「ため」に生きる法度を立てた理由

 私たちが思うに、愛とか理想とか幸福とか平和とかという言葉は、一人では成立しません。これは相対的な関係で成立する言葉なので、いくら絶対者神様がいらっしゃるとしても、その神様が願う理想と幸福と平和は一人で成すことはできないのです。神様の理想を成就させることができ、神様の愛を成就することができ、神様の幸福と平和を完結させられる対象が人間だ、という事実を私たちは考えることができなかったのです。神様一人で愛すれば何をし、神様一人で理想をもって何をしますか。相対的な人間を通じずにはこのような要件を成就させることはできないということは、当然の結論です。

 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様の真なる愛や、真なる理想や、真なる幸福や、真なる平和の起源を主体と対象、この両者間のどこにおくのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がいらっしゃる反面、対象がありますが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこにおくのかということが、創造主であられる神様として問題とならざるを得ません。

 それで真なる理想、真なる愛、真なる平和において主体を中心として対象が主体のために生きるのに理想的起源をおくのか、対象を中心として主体が対象のために生きるのに理想的起源をおくのかという問題を考えられた神様は、その理想的起源を主体の前に対象が「ため」に生きよという立場に立てるならば、神様がそうなると同時にすべての人も自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、そのようになるでしょう。そうなれば、一つになることのできる道がふさがってしまいます。これを知るべきです。

 一つになることができ、平和の起源になることのできるその道は、どこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。ですから真の愛は「ため」に尽くすところから、真の理想も「ため」に尽くすところから、真の平和、真の幸福も「ため」に尽くす立場で成り立つのであって、「ため」に生きる立場を離れては見いだすことができません。これが天地創造の根本だということを、私たち人間は知りませんでした。

 男と女が生まれたのは、男は男のために生まれたのではなく、女のために生まれたし、女は女のために生まれたのではなく、男のために生まれたのです。生まれるのに自分のために生まれたのではありません。自分のために生まれなかったのに、自分を主張するのです。「私、私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界が展開するというのです。

 自分の価値を自分から追求するよりも、相対から、すなわち相対的基準からその価値を追求することのできる道を探求する人は、不幸な人ではありません。いつも、どこでも心情の土台は相対圏をもっているので、どこに行き来しても彼は寂しくなく、幸福であり得るのです。

 神様は、なぜ「ため」に存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら一〇〇パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに五〇パーセントはポケットに入れて五〇パーセントだけ報いたいですか。それともありったけの恩返しをしたいですか。私たちの本心がどのように作用しますか。

 誰でもより多く報いたいのが本心です。与えるままに心から愛する中でくれたことを知れば、一〇〇パーセント以上を返そうとするのです。一〇〇パーセントが一一〇パーセントになって帰ってくるし、その一一〇パーセント帰ってきたのは、また向こうが心からくれたので一二〇パーセントを返すようになり……。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですからこのような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。

 理想と愛は人間にとって生命よりも貴いものなのにもかかわらず、今日人間たちはこのようなものが自分のものとして自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。愛と理想はどこから来るのでしょうか。対象から来ます。対象から来るので、「ため」に生きる法度を立てざるを得ないのです。知恵の王であられる神様はこのようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立てざるを得ないということを知るべきです。

 永遠という概念、これは自分の「ため」に生きるところでは不可能なものです。皆さんが運動するのを見ても、押してくれ、引っ張ってくれる相対的方向が、大きければ大きいほど早く回るのです。知恵の王である神様が「ため」に存在する法度を立てたのは、永遠であり得るために立てられたということを知るべきです。

 私たちの中で、人に主管されるのは死んでもできないと考える人たちが多いと思います。さらに識者層にいる高名な方の中に、このようなことを多く見ます。しかし一つ知るべきことは、今までの人間たちが「ため」に存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸せかという事実を夢にも考えられませんでした。霊界の組織を見れば、天地の大主宰であられる神様、その神様は宇宙万有の存在の中で、「ため」に存在する中心存在なので、その方に支配されるのがどんなに幸せなことか……。千年、万年支配されても感謝することのできる理想的統一圏がここに成立することを知っているので、神様は「ため」に存在せよという原則を立てざるを得ませんでした。

 愛は私から始まったのではありません。生命よりも貴い愛と理想を見つけるには、対象がいなければできません。私たちはこれを考えつきませんでした。この高貴な愛と理想を受けることができ、それを見いだすことができる存在が対象です。ですから私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすると、最も「ため」に生きる立場でなければならないので、神様は「ため」に存在せよという原則を立てざるを得なかった、ということを私たちは覚えておくべきです。

 愛は一人では成されません。愛はどこから出てきますか。私から出てくるのではなく、対象から来るのです。対象から出てくるので、私が頭を下げて対象のために生きなければならないのです。「ために生きよ」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてくるのですが、それを受けようとするので、高め、「ため」に生きるべきだというのです。「ために生きる哲学」を成してこそ愛されるのです。

 真の愛は、与えても忘れ、また与えようとする愛です。偽りの愛は、与えても付け加えて商売する愛であり、与えたのでお前はそれ以上返しなさいという愛です。これはサタンの愛です。

 私たちの本郷は、神様の「ため」に存在する者たちだけが入るところであり、「ため」に生まれ、「ため」に生きて、「ため」に死んでいった人たちが入る所です。これが私たちの本郷の理想的構造なので、神様は本郷を訪ねてこさせるために、歴史過程で数多くの宗教を立てて、訓練させてきたのです。

 これまでの宗教が温柔謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうなので、霊界に帰るべき人間たちを地上生活の過程でその霊界に合うように訓練させざるを得なかったからです。ですから高次元的な宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し奉仕を強調するようになったのは、普段の生活を通じて、その世界に一致させようとするところにその原因があるのです。

 しばしばこの世で、「ああ! 人生とは何なのか」と言いますが、人生観、国家観、世界観の確立、その次には宇宙観に対する確立、ひいては神観の確立が問題となるのです。これをどのように確立するのでしょうか。系統的段階と秩序をどこにおき、その次元的系列をどのように連結させるかという問題は、最も深刻なものです。しかし「ため」に存在するというこの原則に立脚して見るとき、最も価値ある人生観は、私が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという立場から幸福な自我を発見することができるならば、これ以上の人生観はないと見るのです。


第二章 家庭観

 一 理想的な家庭とはどのような家庭か

  一) なぜ家庭が良いのか


 家庭とは、神様の理想が顕現し得る起点であり、人類の幸福が顕現する起点なのです。人間におけるすべてのことが果たされる場であり、神様においても、すべてが完成する場なのです。なぜ家庭が良いのでしょうか。それは、父母の愛を中心とした自由な活動の基地となるためです。

 神様を中心とした永遠な父母の愛、永遠な夫婦の愛、永遠な子女の愛、この三つの愛があるのが理想的家庭です。

 人は必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心に見れば、家庭には父母がいて、子供がいて、物質があります。旧約時代、新約時代、成約時代における縦的な歴史のすべてを、代わりに横的に展開することのできる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子女と、その所有物です。これらが、家庭という一つの囲いの中で必要とされるものです。

 統一教会の理想は、どこか別のところにあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。いまだこの問題を解決した者がいないので、それを願ってきました。そして、そこに幸福があるがゆえに、これを体系化し、天宙化して無限の価値を現したので、統一主義が公認されたのです。したがって、この主義を嫌う者がなく、皆が頭を下げて好むようになれば、世界は自動的に統一されるのです。

 聖書六十六巻はすべて、理想的な家庭を願ったみ言です。また、万民が願うこととは何でしょうか。理想的な妻を迎えることです。「そうではない」と言う男性がいるとすれば、それは人ではありません。また、女性として生まれた者の一番の願いは、理想的な夫に出会うことです。女性は、たとえ博士になって世界に向かって大きなことを言ったとしても、その願いは、理想的な男性に出会うことです。愛することのできる理想的な男性に出会って、福の多い息子、娘を生むことです。これが幸福の根本です。このように統一教会の教理を家庭に打ち込んであるので、これを取り除く者はいないのです。

 天国はどこで成されるのでしょうか。私たちの家庭からできるのです。では、私たちの主義は何主義でしょうか。家庭主義です。私たちの標榜する天宙主義とは、「天」という字に、家を意味する「宙」という字、すなわち天の家主義ということです。こうしてみれば、天宙主義という意味がはっきりするのです。

 家庭とは、小さな社会に立脚した小さな国家です。小さな国家であり、小さな世界であり、小さな天宙だと言うことができます。ですから、家庭を離れては何もできません。このような家庭というものを教えてくれるので、統一教会は偉大だというのです。

 家庭は、万古不変の起源であり、礎です。それは父親にも直すことはできず、兄弟にも直すことはできず、どの国のいかなる制度によっても直すことはできません。また、世界的にも直すことはできず、天と地も、神様にも直すことはできません。ですから、家庭というものには、革命という名詞が永遠に必要ないのです。

 人の一生の中で、最も重要な時とはいつかというと、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。

それでは、生まれる時はどのように生まれるべきでしょうか。良く生まれなければなりません。私たち統一教会で言うところの、「心情の因縁」を中心として生まれなければなりません。

 次は結婚する時です。結婚というのは生きるためにするものです。すなわち四位基台をつくるためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立てて初めて、神様のみ旨が果たされ、人間の志が果たされるのです。そのように、宇宙の法度が志向する内容を備え、その形態を整えるところが家庭です。

 世界は家庭に倣ってできました。どんな世界もみなそうです。今後、理想世界は三位基台、家庭の三位基台を中心として成されなければなりません。

 それでは創造目的とは何でしょうか。四位基台を完成することです。人間がまず四位基台を完成しなければならないので、誰もがみな、家庭を築くのです。人間は神様に似ており、人間を中心とした社会は、神様を中心として人間に似ているのです。統一教会の先生は、今世界に統一教会を立てて、そうなるようにしています。世界はすべてそうなるべきだと知っていながらも、それが表に現れてはいません。しかしながら、そのような原則を通して、世界がそうなっていくのです。理想世界というものは、全世界が一人の人の形を形成する世界です。そこにおいては、国家と民族を超越するのです。

 家庭というのは世界を縮小した横的な基盤です。ここから国家と世界が始まるのです。家庭とは何でしょうか。家庭とは世界の横的な縮小体であり、絶対的な中心の前に相対的な基準です。では、私というのは何でしょうか。絶対的な中心がとどまることのできる足場です。

 この世界を審判することのできる絶対的権限をもつものは、個体ではありません。真なる家庭です。サタンも何を打ってくるのでしょうか。家庭を打ちます。それゆえ、家庭をもって一つとなれなければ破綻するのです。親子の間に、夫婦の間に、破綻をもたらすのです。そして、家庭をもったのに、その家庭が破綻したならば、その人の傷は永遠にいやされないのです。その人をいくら慰めたとしても、どうにもならないのです。

 私たちは、神様の願う家庭を中心とした父母、夫婦、兄弟とならなければなりません。

なぜ家庭が良いのでしょうか。家庭には、お互いに自由に愛を授け受けることのできる基台があるからです。それゆえ、人は故郷を慕わしく思い、父母、兄弟のいるところを慕わしく思うのです。

 父親が喜べば、家庭全体が喜ぶのであり、妻が喜べば、家庭全体が喜ぶのであり、子供が喜んでも家庭全体が喜ぶのです。一時に宇宙全体が喜ぶことのできる場が、家庭というところなのです。

 心と体を収拾して完全な個人となり、夫婦が一つとなって完全な家庭を築かなければなりません。

 お母さんとお父さんが一つとなれば、その家庭は発展し、子供と親が一つとなれば、より次元の高い家庭へと発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚の間で一つとなればどうなるでしょうか。そこには新しい民族正気がわき起こることでしょう。それがより高い次元に向かっていこうとするならば、すべて環境的に結束し、国家基準にまで忠臣の血統として残り得ることを忘れてはなりません。

 天国の家庭は、無理強いしてできるのではなく、喜びの中で自動的にできるのです。愛するときも、受けようとばかりするのではなく、互いに授け受ける作用をしてこそ理想的な愛が成立するのです。

 幸福な家庭とは、夫が帰ってくれば、外であったことを妻と話し合い、新しく開拓し得る要因を発見する家庭です。互いに力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭だというのです。父母がそうなれば、子供たちもそこに加担して、「自分たちもそのような家庭を築こう」と同調するようになるのです。

 真の家庭とは、妻を母親のように思って愛し、「ため」に生き、夫を父親のように思って愛し、「ため」に生き、妹と兄のようにお互いに愛し合うところです。さらには、自分の妻を神様のように愛し、自分の夫を神様のごとくに愛し尊敬する世界が、理想家庭の暮らす天国です。そのような伝統が、この地球上に立てられなければなりません。

 母親と父親は、愛なしには一つになることさえできないのです。皆さんは、なぜ愛が好きなのでしょうか。好まずとも好まざるを得ないようになっているからです。両親が互いに愛し合う力が、自分のことを思う力よりも強ければ強いほど、理想的なのです。お母さんとお父さんを完全に一つに結びつけるものは、愛の綱です。鉄でできた綱は、時間がたてばさびついて切れてしまいますが、愛の綱は永遠です。また、親と子の間は、食べ物によっても、お金によっても結びつけることはできません。唯一、親子の関係の愛でのみ結びつけることができます。

 革命の要素を加えることのできない、そのような礎の上にできた家庭は、いかなる主義や思想にも吸収されることはありません。むしろ主義や思想を支配し、凌駕します。そのような基準が立てられた家庭は、十年、百年、千年たっても永遠に変わることはなく、民族と国家の形態が維持されるのです。

 愛のふろしきとは、どんなふろしきでしょうか。本郷の国へ行って、そのふろしきを開いてみると、理想的な夫が飛び出してくるし、理想的な妻が飛び出してきます。また、理想的な家庭が飛び出してくる福袋です。ここから出てくるものは、一等復帰です。ですから、個人も一等、家庭も一等、氏族も一等、民族も一等、国家も一等、世界も一等なのです。すべてが一等ならば、高い低いということはありません。ですから、兄弟も、家庭も復帰されるのです。このように統一的基盤を造成していくために、宝の壺である愛のふろしきが必要なのです。


  二) 家庭において社会愛、民族愛、人類愛が芽生える


 神様を中心として一つとなるとき、千態万状の様相で回るようになるのです。それゆえ、兄弟の間で愛するときも、親が子を愛するのに倣って、兄が弟を愛さなければなりません。そのように愛して一元化した家庭には、家庭愛の花が咲きます。そして、これが社会愛にもなります。そしてさらには、これが民族を愛する民族愛となります。このように愛すれば、世界になるのです。ところが、今日それが漠然としているのです。

 子女の間の愛とは、どのようなものであるべきでしょうか。何を基準として愛さなければならないのでしょうか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟も愛さなければなりません。愛は誰から学ぶかというと、両親から学ぶものなのです。

 理想的な愛は、家庭から生まれます。しかし、神様は真の息子、娘をもつことができませんでした。真の兄弟をもつことができず、夫婦をもつことができず、また、父母となることができませんでした。それゆえ、それを成そうというのが神様のみ旨なのです。そのようなところであってこそ愛がとどまるのです。そのような愛のある所には、人々がこの世のすべてを捨てて、やって来るのです。

 真の愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は、互いに犠牲となる伝統が備わっていなければ、長く続くことなく壊れてしまうものです。父母は子供のために犠牲となるので、父母が子を愛する因縁は壊れることがないのです。そうして、真正なる父母の愛を受けて育った息子、娘であるならば、絶対に自分の父母に親不孝をすることはできないのです。また、夫は妻に、妻は夫に対して「あなたは私のために生きた」という立場で、よりお互いのことを思い、より犠牲となる立場が広がれば、その家庭は恵みを受けるのです。そのような家庭が、神様の訪ねてこられる福地なのです。

 一つの家庭を中心として、最も良いものとは何かというと、皆さんの子女に結晶するものではありません。それでは、家庭における最高の価値とは何でしょうか。父母です。一人の個人を考えてみても、皆さんにとって権力や知識、あるいは名誉やお金も貴いものかもしれませんが、そのどれにも勝って良いものは「父母」以外にはないのです。その次には皆さんの妻や夫が良く、皆さんの子女が良いことでしょう。

 実際、皆さんの家庭において皆さんの父母や妻、そして子女よりも大切で価値あるものがあるでしょうか。ないのです。それでは、なぜ父母が良いのでしょうか。そしてまた、夫と妻、子女がどうして良いのでしょうか。「愛」があるからです。父母の愛、これは子供にとって絶対的に必要です。夫婦の愛、これは夫と妻にとって絶対的に必要なものです。そして、兄弟の間の友愛であるとか、子女が父母に対してもつ孝誠の心も、一つの家庭に絶対的に必要なものです。

 皆さん、誰が家で一番良いですか。お父さん、お母さんですね。なぜ父母が一番良いのでしょうか。愛を中心として一生の間関係を結ぶことのできる、最も近い立場にあるからです。

 その次は愛する夫と妻でしょう。その夫と妻の、ある条件的な愛ではなく、無条件の愛です。その愛が、絶対的に天によって与えられた永遠な愛と密接に関係した愛ではなかったとしても、夫婦間の相対的な関係において結ばれる愛であるとすれば、その家庭に幸福と和睦をもたらす最も良いものではないかと考えられます。

 その次は、父母に対する子女の愛、父母を思いやる子女の愛です。絶望ではなく、あすの希望として芽を出すことのできる理想的な環境を慕いつつ、明るく肯定的な姿勢で子が親のために犠牲となり、愛することができるとすれば、その子女の愛は、その子の幸福のための、純粋で真実な価値をもつ愛となることでしょう。

 このように父母の真の愛と夫婦の真の愛、そして子女の真の愛を完璧に具備した家庭があるとすれば、その家庭は私たち人間世界で、最も理想的な家庭だと言わざるを得ないでしょう。

 一つの家を考えたときに、その家の中心になる人とは誰でしょうか。年を取った方、すなわち、曾おじいさんがいるとするならは、その曾おじいさんが中心です。亡くなる時が近づいたからといって、家族がそのおじいさんを無視したとすれば、それは縦的な世界を無視するのと同じです。たとえぼけているとしても、その家庭の中心は曾おじいさんです。何か食べ物があれば、まずおじいさんに差し上げなければなりません。たとえお父さんがその国の大統領だとしても、先におじいさんに差し上げなければならないのです。なぜならば、息子は横的だからです。


 不幸はどこから出発するのでしょうか。愛の安息所がなくなるところから始まるのです。幸福な家庭とは、その家の囲いとなる父母に仕えて生きる家庭です。そのような家庭は、上には天を代表する父母に侍り、横的には家庭を代表した他人同士がその因縁の愛を夫婦として結び、この夫婦が天倫の法度に従って、その代を継いで生きる家庭です。

 家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。それゆえ、神様御自身が幸福の基台を求めようとしても、人間を離れたところにはそのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそのような立場で幸福を感じようとなさるのです。

 「これほどならば天上天下にうらやむものはない」と幸福を謳歌する人がいたとしても、「そのような外的なことで幸福だ」と言うことはできません。幸福を求めるための条件にはなっても、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは、何が決定されれば幸福を感じることができるのでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。このことは、誰にも否定することができません。その中の一つしかないとするならば、その人はそれに該当する比例的な悲しみを感じ、比例的な不満がその胸の中に残るしかないのです。

 人間祖先を通じた神様の理想は、男性と女性が結合し、理想的な家庭を築くことでした。そうなれば、理想的な家庭の中心は男性でもなく、女性でもありません。家庭というのは、父母と子女、夫婦の結合による一つの結びつきなのですが、その結ばれたものの中心は、正に神様の愛です。神様の愛を中心として家庭を完成することが、神様のみ旨であるという結論になります。

 父母と子女、夫婦、そして兄弟姉妹が真の愛を中心として一つになることを願うのが、私たちの理想家庭です。ここから永遠な世界的平準化が始まることによって、地上天国が出発するのであり、天上天国も自動的にできるのです。神様は真の愛の本体なので、真の愛に連結されればみな同じ体になります。父母は神様に代わる、生きた神様であり、夫と妻は互いにもう一方の神様であり、息子、娘もまた、一つの小さな神様です。このように三代が、真の愛を中心とする家庭の組織が、天国の基盤です。そのような基盤を築かずしては、天国はできません。

 家庭というのは宇宙の中心です。家庭の完成は、宇宙の完成の基礎となるがゆえに、家庭において愛するがごとくに宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。その場合、神様は宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃるのです。

 神様を中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛が、すべて含まれています。このような消化された立場で、父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をすることになるのです。

「家和万事成」という言葉があります。家庭が平和であれば、万事がうまくいくという意味です。完成した家庭は平和の家庭であり、それは天国の基礎です。家庭の原動力は、真の愛です。自分よりも神様を、そして相手を、生命のように愛するという純粋で美しい愛、それが真の愛です。神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも強い力は創造されませんでした。真の愛は、神の愛です。

 人間は、父子の関係がなければならず、夫婦関係、兄弟関係がなければなりません。すなわちこの三つの関係が一点になければなりません。その中心点は神様です。上下、左右、前後の中心が異なるようではいけないのです。その中心点が違えば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。それで結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点までの七数になるのです。そのような七数を成すということは、すなわち、神様を中心として完全な真の愛で一つとなって、そのすべてが完全に球形となり、調和し、統一された家庭になるということなのです。


二 家庭は天国完成の基本単位

  一) 家庭は地上・天上天国の礎石


 家庭から天国を成さなければならないのですが、イエス様も家庭を築くことができなかったので天国に行くことができず、楽園にいらっしゃるのです。楽園は、天国へ行くための待合室のような所です。地獄は、人間が堕落したがゆえに生じたものです。神様が始めから造られたものではありません。

 四位基台は、地上天国と天上天国の礎石です。天国は、一人ではつくることができません。それゆえ、イエス様も一人でいてはいけないので、聖霊が降臨しなければならないのです。

 天国の起点は、個人でもなく、国家でもありません。家庭なのです。それゆえ、イエス様は新郎新婦の因縁を求めてこの地に来られるのです。個人が天国の起点でしょうか。家庭が天国の起点なのです。

 家庭は天国完成の基本単位です。天国は、一度行けば帰りたくなくなり、十回、百回会ってもまた会いたい、そのようなお方のいらっしゃるところです。万民が共通にそこに行きたいと思い、そのお方に会いたいと思い、そのお方と共に生きたいと思うならば、世界は統一されることでしょう。そこを目指して進んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度に成されるのではありません。まず、個人の基台ができ、次に家庭の基台ができ、民族、国家、世界へと順次、広がっていかなければならないのです。

 家庭天国は、男性と女性が完全に一つとなってこそ完成するのであり、個人天国は、体と心が完全に一つとなってこそ完成するのです。家庭天国は、神様のみ旨を中心として夫婦が一つとなり、子女と一つとならなければなりません。そのみ旨の目的は、万民のためのものです。そして、そのみ旨の中心は神様です。それゆえ、神様を中心として万民のために生きるところから、家庭天国が連結されるのです。神様のためだけに生きるのではなく、神様を中心として万民のために生きなければなりません。神様は、そのような家庭を探し求めていらっしゃるのです。世界が復帰されるときまで、そのような家庭を探し立てなければ、万民を救うことができず、万国を救うことができず、万家庭を救うことができないがゆえに、そのような家庭をつくるために祝福家庭を立てたということを、皆さんは知らなければなりません。

 統一教会の原理でいう四位基台とは、三代愛圏を意味するものです。三代が一つの家で暮らしながら愛によって和睦し「幸福だ」と言うときに、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛すべきことはもちろんですが、子女たちを愛で指導し、真心を尽くして育ててこそ家庭が和睦でき、幸福になるのです。これが縦的に成され、横的に連結されるとき完全な愛が完成するのです。いとこや、六親等のいとこまで、愛で一つとなって初めて愛の円形となり、完全なものとなります。

 私たちの家庭と、天国は、その形態が同じです。私たちの家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。私たちの家は愛で一つになることができます。ここでは統一がなされ、生命が連結することができ、理想を実現することができます。ですから、皆さんが夫婦の愛を尊重することができ、父母の愛を尊重することができてこそ、天国へ行くことのできる資格者となるのです。祖父母は父母の前に愛を相続し、父母は夫婦の前に愛を相続し、夫婦は子の前に愛を相続しています。ここで、どの愛一つを否定しても天国は成り立ちません。夫婦同士で愛する以上に両親を愛し、自分の両親を愛する以上におばあさん、おじいさんを愛すべきだという結論になります。それが天国の核心となり、理想的モットーとなるのです。

 神様の創造理想世界とは、どのような世界でしょうか。真の父母圏を通じて地上天国と天上天国が成される世界です。天国は愛の基盤を通じてのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けたことのある人は誰一人としていなく、現れた痕跡すらありません。霊界も同じです。真の父母の愛を受けていった者がいないからです。

 天国はどこにあるのでしょうか。空中にぽつんと離れているのではなく、父親と母親、そして子供の間で授け受けるという生活的な舞台を育て、また、その中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件として利用する楽しさ、その楽しさを一〇〇パーセント享受し得るところが天国です。

 今後先生は、家庭に関する規範、天国家庭としてもつべき、生活に関する規範を教えてあげなければならないと感じています。ところで、復帰の路程を歩んでいくべき人は、原理を中心として教えてくれる人がいるので、その人を通して教わらなければなりません。先生がそのような問題に直接責任をとる時代は過ぎました。家庭一つ一つを中心として、再度収拾しなければなりませんでした。私たち統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主としているのです。個人を主としてきたものを、家庭を主とするのです。

 み言の時代を経て、実体の時代を経て初めて、相逢(相まみえる)の日を迎えるのです。そして相逢の日を迎えてこそ、天国生活をすることができるのです。相逢の日には、相手の心が私の心であり、相手の心情が私の心情であり、相手の姿が私の姿であり、相手の困難は私の困難であり、相手の傷は私の傷として感じられる境地にまで入らなければなりません。そのような境地に入って相手の心も私の心であり、相手の心情も私の心情となってこそ、天国家庭ができるのです。それがこの地で完結されてこそ、天国家庭ができるのです。

 天国生活は、どこから始まるのでしょうか。家庭です。他のところから始まるのではありません。天国とは、家庭を立体的に拡大したものにすぎず、家庭圏を離れたものではないのです。それゆえ、皆さんは自分の妻や夫を抱くとき、それが世界の男性と女性が一つになることだと考えなければなりません。そのように、世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、すなわち家庭なのです。

 天国は、家庭を中心として成されます。家庭の家族として守るべき矜持(誇り)を忘れてはなりません。

 これからは私たち統一教会で礼拝を捧げるときも、説教の形式ではなく、報告の形式で行わなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。それゆえ、家庭全体で来て礼拝を捧げなければならないのです。そうして、良くやっている家庭を見ては見習い、そうでない家庭には、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そうして家庭天国を建設しようというのです。まず家庭天国ができなければ地上天国はできないということを、はっきりと知らなければなりません。

 今、私が教会を建てないのは、それなりの考えがあってのことです。教会に多くの人が必要ではないからです。天国は教会からできるものではなく、家庭から始まるものです。家庭、すなわち新郎新婦から始まるのです。女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれました。赤ん坊が眠りから覚めて、まず呼ぶのが「お母さん」です。赤ん坊が母親を呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。そのように呼んだことのない人は、かわいそうな人です。また、妻も夫以上に、そのように呼ばなければなりません。お互いに、そのような夫婦として接しなければならないのです。琴瑟之和(注:夫婦の仲がごく睦まじいこと)の夫婦として、お互いにそのように呼び合って暮らさなければならないのです。そのように千年、万年暮らしたならば、老いても青春をうらやむということはないのです。今後、祝福家庭の夫婦が八十歳の老人になったならば、先生が世界一周をさせてあげようと思います。

 昔、先生が統一教会を始めた時のように、友達が家に来れば「自分の家よりもここのほうがいい。麦飯を食べたとしても、粥を食べたとしても、うちの御飯よりもおいしい。もう一晩だけ泊めてくれないか」と言う、そのような家庭を築きなさいというのです。訪ねてきた人、訪ねてきた友達がみな、自分の家を捨ててその家に来たいと思うような家庭になってこそ、その家庭は天国の家庭となるのです。

 神の愛を中心として二人が一つとなってこそ、夫婦の天国ができます。一つとなったものは誰にも離すことはできず、分かれたり離れたりする心配はありません。皆さんは、どのような愛を見いだしましたか。神の愛を見つけたとするならば、皆さんの心と体が完全に一つとなり、神の愛がそこに臨在できなければなりません。そして夫婦の天国が生じ、家庭天国を成さなければなりません。お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し、その息子、娘も両親のように相手を得てこそ、家庭天国が実現するのです。父母がプラスとなり、息子、娘がマイナスになれば、家庭天国となるのです。

 夫婦のうちで、男性はどうあるべきなのでしょうか。男性は、教会と関係をもたなければなりません。また女性は、物質と関係をもたなければなりません。環境的にはそのようになっていますが、家庭的にはどうでしょうか。父親と母親と息子、娘、この三者が一つとならなければなりません。そこから家庭天国が始まるのです。それゆえ、愛を中心とした天国を成すためには、四位基台を成さなければなりません。


  二) 家庭は真の愛の訓練道場


 天宙主義というのは、体と心を合わせたのち、神様の愛の本体となる家庭を成し、その理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の「宙」の字は「家」という意味です。家の宙、ですから天宙主義という言葉を使うのです。天宙は、無形世界と実体世界を合わせたものです。それが私たちと、どのような関係があるのでしょうか。私たちには家庭が必要です。皆さんが家庭で一つになれないとすれば、天宙主義とは関係がないのです。家庭が、天宙主義を完結するための最終基準なのです。そこで平和の歌を歌うことができず、幸福を賛美することのできない人は、地上でも、霊界へ行っても不幸な人となるのです。

 愛は永遠に続くものです。愛は最高の願望なので、万民がもろ手を挙げて相続しようとします。その愛を残すことによって、霊界でも神様の前に堂々と進むことができます。そのような愛を完遂し得るところが家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち愛の一体圏ができるということです。

 天があれば地があり、天と地があれば、これを象徴する男性と女性がいて当然です。それが立体的な面で一つとなり得る心情的な基準が、家庭です。その家庭は、目的世界のための絶対的な基準をもって突き進むことができます。そこから新しい歴史、新しい世界、新しい天宙の基盤が築かれるのです。

 家庭を中心として天宙主義を成さなければなりません。天宙とは、天と地を総合したものです。天と地は、人間における心と体のようなものです。心と体が一つにならなければなりません。一つの主体があれば一つの対象が必要であるように、一人の男性には一人の女性が必要なのです。男性と女性が一つとなるのが家庭です。

 一つの家庭は、社会の倫理的基盤であり、人間世界において最も手本となり、根源的で、一次的な組織です。そのような家庭において、「愛」が最善の価値基準になるのです。

 人間の価値をどこに置くべきかというと、理想世界に置くのではなく、理想の人に置かなければならないのです。ですから世界を愛そうとするならば、人を愛さなければならないのです。どのように愛するかというと、男性が女性を愛するように、女性が男性を愛するように愛さなければならないのです。

 神様の息子になろうとすれば、神様の心情に似なければなりません。神の心情は、世界に植えられています。ですから、世界の人を愛さなければなりません。距離が離れている関係で愛せないというならば、その国を愛し、氏族を愛し、家庭を愛し、父母を愛さなければなりません。なぜなら、父母は神様、夫婦はアダムとエバ、子女は世界の人類を代表した立場にあるからです。

 理想世界とはどのようなものでしょうか。理想的となるには、単色よりも色とりどりなのが理想的です。そのような意味から考えると、五色の人種が一つとなって暮らすのが理想的でしょうか、五色の人種がそれぞれに暮らすのが理想的でしょうか。みな一緒に一箇所で交わって暮らすのが理想的です。ですから、そうなっていないとすれば、直さなければなりません。レバレンド・ムーンが現れてそれを直すのを、神様は嫌がるでしょうか、喜ぶでしょうか。神様はそのような人を後援しようとするのです。ですから皆さんは、神様のような心をもって、その父母の伝統を継承して人類を愛する天の家庭的なこの心情の絆を、いかにして拡大するかということに力を注がなければなりません。

 この中で、年を取ったおばあさん、おじいさんが好きだという人は手を挙げてみてください。それでは、好きではないという人、手を挙げてみてください。手を挙げない人が多いです。皆さんに五百歳になるおばあさん、おじいさんを任せたとすればどうしますか。それでもよいですか。年が多ければ多いほど好きだという人は、神様のことが好きな人、ということになるのです。なぜかというと、この世界で最も年を取ったおじいさんとは誰かというと、神様だからです。

 ですから神様を愛する人であるならば、その中にいる年を取っていないおじいさん、おじさん、息子を問わず、みな愛さなければなりません。すなわち、神様の家庭を愛さなければなりません。神様の家庭には、日本人でも韓国人でもアメリカ人でも、どの国の人でもみな入っているのです。人種差別をする人は、神様の家庭を愛していない人だということになるのです。その差別がなくなってこそ、理想世界なのではないでしょうか。

 もし父母の愛を受けている子女が、外でお父さん、お母さんのような人に出会ったならば、その人にとても親近感を感じ、話をして、助けになりたいと思うことでしょう。また、兄弟姉妹の間で美しい絆をもった人が社会に出れば、周りの人とより親密な関係を保ち、うまく交わることでしょう。自分の兄弟姉妹と仲の良い人が外に出て異性と交際するときも、ごく自然に交際することでしょう。肉欲的、あるいは不健全な感情をもつことなく、兄弟姉妹のような感情をもつようになります。地上天国とは、神様を中心として、そのような関係を経験することのできる家庭をいうのです。

 健全な家庭生活とは、祖父母、父母、子女が共に生活することです。もし、一つの世代が欠けているとすれば、その家庭はかたわのようなものです。そこで理想家庭を成すならば、その家庭は地上天国を成すれんがとして奉仕しなければなりません。私たちは、その理想家庭を地上に築くべき使命をもっています。

 祖父母の深い愛を享有する子女が社会に出れば、例えばその人がニューヨークの街に行けば、お年寄りにとても親近感をもつことでしょうし、お年寄りはその人に対し、自分の孫のごとくに接することでしょう。とにかく、お互いに話をしたいと思うし、親近感を感じることでしょう。家庭で祖父母に仕えたことのある若者は、助けが必要なお年寄りを見ると、走っていってでも助けてあげることでしょう。

 父母、夫婦、子女で形成された家庭は、世界の縮小体です。家庭的愛を拡大してすべての人を愛するのが、人類の生きていくべき道であることを知らなければなりません。年を取った人は自分のおじいさん、おばあさんのように、中年の人は自分のお父さん、お母さんのように、自分より少し年上のような人はお兄さん、お姉さんのように、年下に見える人は弟妹のように思って愛さなければなりません。

 ですから真の人というのは、自分の父母と年の似通った人は親のように思い、お兄さんと年の近い人はお兄さんのように思い、お姉さんと年の近い人はお姉さんのように思うというように、すべて自分の家族のように思って、すべての世界的な障壁と境界線を超越して人類を愛することのできる心情をもった人のことです。そうしてこそ、本当の意味で父親、母親を愛することのできる資格をもつことになるのです。

 皆さんはどこへ行っても、すべての人を他人ではないと思わなければなりません。皆さんの家族だと考えなければなりません。お年寄りを見れば自分の親のように思い、その人に悲しいことがあれば、その人を抱いて痛哭し得る心を常にもたなければなりません。

 自分の妹やお兄さんを捨てることはできません。自分の母親も捨てることはできません。誰も捨てることはできません。ですから離婚ということはあり得ません。夫は父親に代わり、兄に代わるものなので、父親を捨てることはできず、兄を捨てることはできないので、妻も夫を捨てることはできません。そのような愛を抱いて、世界を愛さなければなりません。父親と同じような年の人を見れば、父親のごとくに愛し、母親と同じような年の人は、母親のごとくに愛さなければなりません。

 皆さん、家庭がなぜ良いのでしょうか。それは、父母の愛を中心として自由な活動の基地となるからです。同じように、神様が自由に活動できなければなりません。いくら見た目にはみすぼらしくても、輝く愛の核をもつ、そのような内的な人間から成る社会となったならば、神様は自由なのです。皆さん、そうではありませんか。人の家に客として行けば、何か不自然です。なぜでしょうか。それは愛の因縁がないからです。愛の因縁に四方性が備わっていないので、ぎこちないのです。ですから私たちの行くべき道は、人格の道です。

 統一教会では、天国は氏族圏の中からできると見るのです。おじいさんを中心として父母と兄弟が一つとなり、いとことその子供まで一つに結ばれれば、完全な三代ができます。このような氏族圏の愛が地に立てられて神様と一つとなったならば、世界はすべて神様と一致する愛の世界となり、天国となるのです。

 女性が嫁に行っても同じです。婚家のおばあさんとおじいさんは、神様に代わる位置にあり、夫に代わる位置にあるので、愛をもって仕えなければなりません。また、夫の兄弟姉妹とも愛によって睦まじく暮らさなければなりません。そのような愛の関係が社会に拡大し、民族と国家、世界に拡大するならば、この世界は、罪悪と戦争に代わって、平和と愛に満ちるようになります。そうなれば、その世界こそが神様の理想が実現した一つの天国であり、理想世界なのです。

 この宇宙の中心はどこにあるのでしょうか。家庭にあります。真の愛が定着し得る基地とはどこでしょうか。皆さんの生きている、皆さんの家庭だというのです。それゆえ、本来の家庭は宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら宇宙愛圏を拡大して、家庭を越えて国家を愛する愛国の道を行くべきであり、さらに民族と国家を越えて世界を愛する道を行かなければなりません。家庭を愛する人を「孝子」あるいは「烈女」と言い、国を愛する人を「愛国者」と言うならば、世界を愛する人を何と言うのでしょうか。そのような人のことを「聖人」と言うのです。

 神様は家庭の中心となるお方として、この世界は神様の国とならなければなりません。祝福家庭は、神の国を連結し得る家庭となるように努力する生活をしなければなりません。神様に代わって「ため」に生きる生活をするところから氏族が生まれ、民族が生まれ、国家が形成され、世界が形成されます。ですから家庭は、神様を中心とした世界を形成する責任を果たさなければなりません。先生を中心とした統一教会は、一つの氏族のようなものであり、一つの民族のようなものです。五色の人種が合わさって単一民族を形成し、誰よりも世界のために生きる国家を形成するのが、統一教会の目的です。それが先生の目的であり、神様が先生を通して果たそうとされる目的です。

 家庭というのは、人類愛を教育する代表的な修練所です。心情の中心を立てる、代表的な広場です。そこで互いに信頼し、幸福を享受するようになるのです。それが理想圏の始まりです。愛なしには、何ら存在する意味さえありません。

 家庭は、天国を成すための教材としてつくられたものです。おじいさんのような年格好の人を自分のおじいさんのように愛するならば、その人は天国へ行くようになっています。自分の親と同年輩の人を、自分の親のように愛するならば、万国共同で、霊界でも境界線が生じません。息子、娘と同じような年のアメリカの若者を、自分の息子、娘だと思うことのできる心さえもっていれば、天国のどこへでも行くことができます。天国には十二の門があり、方向があるのですが、どこへでも通じるのです。家庭というのは、天国全体に因縁を結ばせる教材です。すなわちテキストブックだということです。

 家庭において父母は、縦的な軸を完全に継承し、そこに合わせなければなりません。次に夫婦は、軸に対して横的に九〇度の角度に合わせなければなりません。その基準は、国家においても同じです。愛の軸の位置は一つしかありません。それゆえ、その軸を中心として、家庭は小さいのですが、氏族、民族、国家、世界へとだんだん大きくなります。愛の軸を中心として拡大するようになっています。拡大縮小の因縁関係をすべて四方に拡大するところから理想圏が生じるのです。ですから今世界を一つにするために私のしていることは、軸を正すことです。ですから方向を設定するためには、思想的王子の立場を占領しなければなりません。占領するにおいて、強制ではなく、愛で消化しなければなりません。

 皆さんの家庭は、天国の主権を代表した立場にあることを知らなければなりません。父母は主権を代表し、子女は国民を代表し、物質はその国の地を代表したものであるので、父母に孝行することが、国に忠誠を尽くすことであり、父母に孝行することが、聖人の道理を果たす道に通じるのです。今、家庭がありとあらゆる醜態の起源となっていますが、神様は家庭が聖なる基台となることを願っていらっしゃいます。それゆえ、堕落圏内にある腐敗した家庭を収拾すべき使命が、私たちにあるのです。この地の家庭は破綻していますが、その家庭を否定することのできない立場にあるということを知らなければなりません。


三 真の家庭の理想と価値

  一) 真の父母、真の夫婦、真の人


 神様は人間にとって、真の愛をもった縦的な父母です。その縦的な垂直関係というものは一つしかありません。絶対的です。二つとあり得ません。その縦的父母だけをそのまま置いたのでは倒れてしまいます。大変なことになります。ですから横的父母を探し立てて連結しなければなりません。それを詳しく説明するならば、創造主は真の愛の縦的父母であり、創造されたアダムとエバは、子の立場でありながら神様の体である横的な父母の立場に立ちます。それらが内外一つとなることによって、内外の共鳴体となって授受作用をすれば、中心が生じると同時に、その内外の共鳴圏の中心が植えつけられるのです。それが、皆さんの生まれた生命の根源です。

 縦的な父として一つとなった中に、横的な父が必要です。なぜでしょうか。球形を成さなければならないからです。そうではないでしょうか。球形を成そうとするときに、そのままで球形になることはありません。必ず垂直を中心として、横的なもの、前後左右が連結されて初めて球形ができるのです。球形になってこそ、思いのままに動き回ることができるではありませんか。

 宇宙はそのようにはなりません。この宇宙の対軸の前に相対として編成された立場で、軸を中心として回るのです。それゆえ、同位圏に立っているのです。そして、この宇宙の神の創造的真の愛というのは一つです。軸は一つです。二つではありません。

 既成神学では、創造主は聖なるものであり、被造物は俗なるものとされています。被造物を罪人扱いしたのです。しかし、「それは誤った」ということを知っているというのです。神様がなぜ創造をしたかというと、愛のゆえです。縦的な愛の主人であるとすれば、縦的な神様の愛をもったそのお方が子女を生んだとすれば、長く一筋にしかならないのです。それをいかにして横的に展開するのでしょうか。それゆえ、子を生むのは神様がするのではないのです。真の父母を通して生むのです。

 横的な真の愛の父母の位置に立ったお方が誰かというと、真の父母です。神様の縦的な愛を中心とした真の父母の前に、九〇度の角度にある横的な愛をもったお方が真の父母なのです。それゆえ、二つの父母の愛が必要なのです。一つは創造主としての父母であり、一つは被造物としての、神様がその対象として理想を描きながらお造りになった体的な父母です。それゆえ、神様は心的な父母の立場にあり、真の父母は体的な父母の立場にあります。この世に、縦的な愛と横的な愛を中心として生まれるべきだったのが人間です。

 なぜ子女を生まなければならないのでしょうか。神がアダムとエバを喜びをもって創造した、その内容を体恤させるためなのです。それゆえ、息子、娘を生んだことのない人は、父母というのが分からず、夫のことが分からず、妻のことが分からないということになるのです。過去と現在において愛したけれども、未来を開くことができないのです。おじいさん、おばあさんは過去の時代を代表し、お母さん、お父さんは現在の時代を代表し、息子、娘は未来の時代を代表するのですが、この三つが一つとなることのできる所が家庭だということです。

 エバは神様の外的新婦です。それでは、神はなぜアダムとエバを創造したのでしょうか。それは繁殖のために創造したのです。子孫を殖やすために創造したのです。子孫を繁殖してどうするというのでしょうか。それは、莫大な天国の国民を増やすためなのです。霊界に行っても繁殖が可能でしょうか。絶対に不可能です。なぜならば、神の愛は垂直的なので、たった一点しかありません。神の愛は一点に立つ垂直的な道を降りてくるのですが、垂直には繁殖の道がありません。それで、繁殖のために横的な基準であり愛の基台であるアダムとエバを創造したのです。それは水平なので、東西に回るようになるからです。一八〇度の平面圏は無限に存在するのです。ですから繁殖は、すべての方面で可能なのです。膨大な平面圏において繁殖させた者たちを霊界に連れていって、天国の国民にするのです。永遠な国民をつくるために繁殖が必要なのです。しかし、その生産地は地上です。男性、女性の体を借りてできるのであり、霊界では子女を生むことはできません。

 天国の民は霊界で生まれるのではありません。神様は何ゆえに実体を創造したのでしょうか。天国の民を繁殖させるためなのです。実体でなければ繁殖できません。縦的な愛には一点しかありません。横的な基準を中心として回ることによって三六〇度の球形体が生じるのです。その球形体には定着し得る空間がいくらでもあります。ですからその息子、娘が地上に生まれることができるようになっているのです。その息子、娘がたくさん生まれるということは、不幸なことではありません。地上で多くの息子、娘を生むということは、天上世界における天国の民をたくさん繁殖するということになります。神様が願うのは、限りない世界です。広大な世界に空いた所があってはなりません。それをすべて埋めることのできる民が必要なのです。

 原点は何でしょうか。真の父母権、真の王権、真の長子権です。それがアダムとエバが出発すべき原点だったのです。それが神様の本宮です。そこに神様の王宮があるのです。神様の王宮がそこにあり、神様の愛がそこにあります。人間と創造主、被造物と創造主が一つに結ばれて、真の愛の基盤となるのです。その出発点が神様のセンターです。それが、完成した本然のアダムの家庭基盤であり、神様が永遠に臨在することのできる王宮です。

 私たち人間が寝て、朝目覚めたときに願うこととは何でしょうか。朝起きて朝食を取るのが問題ではなく、出掛けていって働くのが問題ではなく、世界のことを心配するのが問題ではありません。夜も昼も、春夏秋冬変わることなく、一生変わることなく愛の心をもつことを願うのです。そのような男性、そのような女性が完全に水平線を成して、縦的な神様に完全に九〇度の角度で連結され、人情と天情が合わさり得る、そのような立場における愛、そこに結合し得る愛の理想の境地、そのために神様は天地を創造されたのです。

 私が生まれるときに、何を動員して生まれたのでしょうか。本来、創造理想である神様の愛を中心として愛を通してつくられた実体である母親と父親の生命が激動して、完全に一〇〇パーセント沸き立って一つになって生まれました。これを煮え立たせたのは何でしょうか。愛を通して男性と女性が完全に和合するのです。細胞が完全に沸き立って、その父母の愛を根拠とした生命と血統、血を受け継いで私が生まれたのです。それゆえ、私という存在は何かというと、父母の愛の結実です。それを知らなければなりません。私は両親の愛の結実だということです。


 神の創造原則において、女性が生まれたのは男性のためであり、男性は女性のために生まれたという根本を知らなければなりません。互いのために生まれたのですから、その中心は何かというと相手です。自分ではありません。男性にとっては女性が中心であり、女性には男性が中心なのです。自分によって生まれたのではありません。自分から出発したのではありません。

 なぜ神様が創造したかというときに、愛のゆえに創造したと聞いたならば、宇宙がどれほど平和になり、どれほど近く感じられることでしょうか。つまり、神様の絶対的愛をもっているのですから、その相対は永生するのです。それが最も貴いことなのです。

 神様が天地を創造したように万物が結婚するならば、どれほど美しいことでしょうか。万物も自分のように愛を通して生きているということを見るときに、神様が創造のあらゆる根源的な感覚を再現し、すべての万物と共に、その相対と共に統一的感情を感じることのできるもの、それが愛なのです。神様が創造するときの根源的なものを感じるのです。天地の万物を造るときに神様が感じた理想型、それがすべての被造物なのです。

 真の愛をもって引きつければ、天地がすべて引かれてくるのです。いくら遠いものでも真の愛が引けば引かれてくるし、いくら近い所にあったものでも遠くに見えるようにしようとすれば、真の愛によって遠くに行かせることができるのです。

 絶対的な神様の一つの文化世界において生まれる息子、娘は、王子であり、王女です。神様の王宮における王子と王女は、人間です。そこは、創造主、神様を中心とした王宮です。王の中の王である創造主を中心とした皇族が、私たちなのです。

 男女の生殖器官は、創造主から受け継ぎ、先祖から受け継いだ、変わらずにそっくりそのまま連結された礼物です。神様も侵犯することのない貴い礼物です。先代も破ることのできない貴い礼物です。これを侵犯する者は、天理の大道の中心である愛の本宮を破綻させる悪魔の血肉です。純粋な本質としての永遠な真の愛を中心としたその基台の上に生まれたのが、生命の本宮です。また、新しい血統の本源の地です。きちんとしなければなりません。私は教主なのですから、まっすぐにさせなければなりません。生殖器は何ゆえに生じたのですか。天地の大道のために、天地の大摂理的経綸のために、私に与えられたものです。

 神様が創造するときに、生殖器を表象して男性と女性を造り始めました。それゆえ生殖器を動かすところには、人間全体の構成要素がすべてついているのです。ですから男性と女性が愛して、その二人が一つとなって子を生むのです。一つとなって生むということはどういうことですか。何に似るのでしょうか。神経系統がすべてついているので、従ってくるのです。根がないのに枝が出てくるでしょうか。それを否定することはできません。それゆえ愛が激動するときには、体と心が一つとなるのが原則です。これは理論的です。

 では、愛を代々に連結させることのできるところ、その生命を代々に連結させることのできるところ、自分の血統を自分の子に代々連結させることのできる、その器官とは何でしょうか。それは男性、女性の生殖器官です。

 それでは愛が先なのか、生命が先なのか、それが問題となります。このごろ、心が先だとか、体が先だとか、唯物理論の哲学思潮が入って世界で問題になっているように、愛が先か、生命が先か、これが問題です。どちらが先でしょうか。先か後かを明らかにしなければなりません。愛が先です。神様が創造理想を立てるとき、神様を中心として立てたのではありません。愛を中心として立てたがゆえに、相対世界の創造を始めたのです。これは理論に適っています。

 男性と女性はどこから来たのでしょうか。創造主がいるとするならば、創造主から始まったことでしょう。そうだとすれば、その創造主が男と女を造った目的は何でしょうか。何ゆえに造ったのでしょうか。なぜ造ったのでしょうか。愛のゆえに造ったのです。どんな愛でしょうか。真なる愛です。真なる愛とはいったい何でしょうか。真の愛とは、永遠で、変わらない愛のことをいいます。たとえ時代が変遷し、いくら環境が変わっても、その愛は変わらないのです。その本質において唯一で永遠、不変性をもった真の愛の理想を果たすために男と女を造ったのです。誰を中心としてでしょうか。それは人間を中心として創造したのではありません。根となる神様を中心として創造が始まったのです。それゆえ、この被造世界はすべて愛ゆえに生じたと考えられるのです。

 真の愛によって成熟した真の家庭は、神様の愛の巣です。

 神様の恨とは何かというと、子女を教育できなかったことであり、兄弟を教育できなかったことであり、夫婦を教育できなかったことであり、父母となるための教育ができなかったことです。そのような内容の心情圏を中心とした、そのようなオーソリティーを全体化しなければならないのです。


  二) 真の家庭の理想と価値


 四大心情圏と三大王権を復帰して、皇族の愛をもっていくべき祖国が天国です。死んでみれば分かります。いくら偉い人でもみなそこに引っ掛かります。その時になって「文総裁の言うことを聞けばよかった!」と後悔するのではなく、早く決めて祝福を受ければいいのです。それが最も早い解決方法です。そのようにして学ぶのです。

 四大心情圏と三大王権をサタンが蹂躙したのです。天の国を破壊し、未来世界を破壊して、三世界の王権を破壊しました。それゆえ、私たちが天国に行くには、四大心情圏の完成実体となり三大王権をもった愛の王子、王女の基準で、皇族の愛を受ける人とならなければなりません。そのような人が天国に行くことは元亨利貞(注:事物の根本となる道理)です。

 堕落によってこれを一遍に失ったので、その本体に会えば、娘の心情を感じ、妹の心情を感じるのです。そのように新婦の心情を感じ、母の心情を感じ、新しい息子、娘の心情までも感じるようになるのです。ですから先生の場合、自分の息子、娘にできたらいいとも思うのです。そのような心情圏を回復することによって、善悪のよしあしを判断して、天の側に帰ることによって、すべてが解怨成就するのです。心がそのように作用するのです。それはどうすることもできません。

 皆さんは愛の家庭をもたなければなりません。神様の愛の圏で完全に統一された王族、天国の王子、王女の王族圏を中心として愛の体験をした皇族の行く所が天国であるということを知るべきです。アーメン。皆さんが生きている間、この原則を中心として合わせなければなりません。あの世へ行ってもこれに合わせるために身もだえしなければならないのです。ですから私は一生の間、他のことを考えたことがありません。

 皆さんは家に帰って、おじいさん、おばあさんを神様のように思って侍らなければなりません。お母さん、お父さんを家庭の中心である王のように、王妃のように侍らなければなりません。そのお父さん、お母さんの息子、娘として、私は王子、王女の道理を受け継いで育ち、未来の王権を伝授されて世界を導いていくべき王子、王女なのです。今後、統一教会員は、そのような考えを中心として、そのような愛の秩序に拍子を合わせていかなければならないのです。そのような家庭の父母となり、そのような家庭のおばあさんとなり、そのような家庭のおじいさん、そのような家庭の息子となるときには、そのまま天国へ行くのです。そのような天国の皇族の愛を体験した人の行く所が、天国なのです。

 私たち統一教会の信徒同士は、自分の兄弟よりも近いのです。そのように今後世界は、前後の世界が一つとなり、その次には夫婦が一つとなり、左右の世界が一つとならなければなりません。上下、前後、左右……。上下は子としての道理、前後は兄弟としての道理、左右は夫婦としての道理、そのようにして完成すれば、霊界の神様の位置に上がって神様化すること……。神様へと帰っていくのは、真の愛だけにできることだということを知らなければなりません。真の家庭とは、このような公式的基準で訓練された完成したアダム家庭を拡大したものなので、この世界を拡大すれば、東西が一つとなり、男性と女性が一つとなるのと同じことです。男性を中心として、主体を中心として相対が一つとなり、前後が一つとなり、上下が一つとならなければならないのです。そうなることによって、一つの世界が間違いなく原理的な内容を中心として真の愛によって完成し、完結するでしょう! アーメン!

 今日の人生の行路は、旅人の航路なのですが、そこで備えるべきものとは何でしょうか。愛を体恤していかなければならないのです。父母の愛をよく受けられなかったことが堕落なので、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子、娘の愛を中心として、縦的な家庭を築き、横的な環境を、東西南北にたくさんの家庭を広めなければなりません。そして、それらが縦横を連結することのできる真の家庭の形態を成して、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏へと連結するとき、愛で結ばれたその世界のことを、すなわち天国というのです。

 子女の愛、兄弟の愛、父母の愛を拡大しなければならないのです。拡大してそれが公式化され、広がることによって、縦的な国と、横的な国を受け継いだ天地の完成的家庭となるのです。神様の内的な心情と、アダムとエバの外的な実体のすべてを体験し得る家庭的な生活をした人が、天国の皇族圏に属するのです。簡単なことです。先生の言うことに間違いはありません。

 真の父母の愛、真の師の愛、真の主人の愛です。この三大主体思想の中心の場は一つです。真の家庭の父母を中心とします。先生も、夜になれば家に帰ります。大統領でも、夜になれば家に帰らなければなりません。それゆえ、父母の愛を中心として父母の代わりに教育するところが学校であり、父母の代わりに父母の愛で国を治める者が大統領なのです。

 真の愛とは、どのようなものでしょうか。自分の理想を投入して忘れるのが、真の愛です。ここにいらっしゃる方々、よく考えてみてください。愛国とは何でしょうか。自分の命を投入して忘れることです。真の夫とは、自分の妻のために自分の命を投入し、また投入しても、永遠に投入しようという人です。そのような立場に立つのが真の夫の行く道であり、真の妻の行く道であり、真の息子の行く道であり、真の兄弟の行く道であり、真の父母の行く道であり、真の家庭の行く道なのです。おじいさんがそうであり、おばあさんがそうであり、お母さん、お父さんがそうであり、自分の夫、妻がそうであり、息子、娘がそうであるという家庭は、神様に「来るな」と言っても、自動的に来ていらっしゃるのです。なぜでしょうか。神様に似ているからです。

 お金がたくさん必要なのではありません。お金というものは流れていってしまうものです。子供というものも流れていってしまいます。すべては流れていってしまいます。しかし、真の愛を中心とした真の家庭の伝統だけは、霊界にまで永遠に残るのです。それが最も貴いものなのです。

 アダムとエバが、息子から兄弟、夫婦、父母にまでなったとすれば、アダムの息子、娘たちもそうなったことでしょう。しかし、アダムの息子、娘は、神様の愛の圏内にまで至ることができませんでした。堕落していないアダムの息子、娘となったならば、すべてが横的に結ばれる地上天国ができたでしょうが、縦横が連結されなかったので、天国はできなかったのです。ですから二つの国を受け継がなければならないのです。息子、娘は、二つの国を受け継がなければなりません。天の国と地上の国、縦的な国と横的な国、縦的な父母と横的な父母の血統を受け継いだので、縦的な父母の内的なものすべてと、横的な父母の内外のすべてを伝授されるのが息子、娘なのです。皇族というのは、二つの国を受け継いだ生活を実際にするのです。皇族になれば、二つの国でいつでも受け入れることのできる、そのような完成的な基盤の上に立つのです。

 父母の愛は、全世界の男性圏、女性圏を代表した花であると同時に、香りとなり、実の基準となるものです。代表なのです。母親と父親は、人類の女性と男性を代表した存在なのです。では、自分の息子、娘は何でしょうか。後代に数千万の人類が生じ得る、そのような子孫の代表者なのです。ですからこの三者が一度に神様の愛と化して、下の者が上の者のために、上の者が下の者のために生きる愛になるのです。自分のためというのではありません。神様の創造本性とは、「ため」に生きるということです。

 おじいさん、おばあさんは神様の代わりとなり、母親、父親は世界の大統領の代わりとなり、その息子、娘は、天国の王の息子、娘のように王子、王女として生きるのが家庭の理想であり、創造主であられる神様の愛の本来的な家庭です。家庭は天国の王宮であり、その構成員は天国の王族を代表するものです。おじいさんは神様から見れば、王子、王女の代表です。皆さんの両親は、すべての国家、世界の王子、王女の代表です。そうではないでしょうか。誰もがそのような欲心をもっていますね。同じなのです。子供は未来の全宇宙の王子、王女の代表です。これほど価値ある場の中心が私たちの家庭です。本当に誇るべきことです。そのような素晴らしい理論の基盤の上に私たちが立っているというのは、本当に貴いことなのです。

 「私は神様を誇ります」と、皆さんがそう言えば、もちろん神様も同じです。「私は中心家庭として、理想的夫婦の代表的な家庭であることを自負しています」と言うことができれば、すべてが、未来のすべての万物までもが歓迎するのです。そのような価値ある家庭、歴史的家庭の背後を知っていますか。それは神様の創造された理想家庭の組織です。皆さんがその立場に出なければならないのです。神様はおじいさんの立場です。その立場に立てば、誰もがその前で敬拝するのです。

 おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬するということは、過去をすべて受け継いで、過去の世を学ぶことです。父親からは現在を学ぶのであり、子女を愛するということ、子女を大切に思うことは、未来を学んでいくことです。おばあさん、おじいさんを通して、お母さん、お父さんを通して何を受け継ぐのか、どんな血統を受け継ぐのかというと、真の愛です。真の愛を受け継ぐのです。おじいさん、おばあさんが年を取っていても、二人が真の愛で一つとなっていて、お母さん、お父さんが一つとなっているので、私たちもそのようになって、未来を受け継ごうというのです。未来を受け継ぐためには、絶対に真の家庭とならなければなりません。そうならなければ未来を受け継ぐことができないということを知らなければなりません。家庭の中にこの三者がいるならば、それは宇宙があるようなものです。宇宙の愛は、神様からの歴史全体、現在と未来を代表した真の家庭にあるのです。

 真の家庭でおばあさんを愛し、お母さんを愛し、お姉さんを愛するのです。動物の世界を見ても、雌を愛し、雄を愛するというように、すべてがそうなっているのです。それはなぜかというと、宇宙の愛を学ぶ教科書だからです。おばあさんがいなければ不安定なのです。おじいさんがいなくても不安定で、誰かほかの方がいなくても同じです。そのようになってこそ、そのまま天国に移っていくのです。祖父母、母、父、子女がそのまま天国へ行くのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女、真の家庭、真の国家、真の宇宙を愛した人が天国へ行くのです。その模型の教科書が家庭です。そう考え、神様を考えると、永遠な未来になるのです。神様を愛しながら「私の愛は未来のために行く」というとき、永遠な未来となるのです。


四 天国は家庭単位で行く所


 家庭は国の中にあり、国は世界、世界は宇宙の中にあるので、家庭や世界を捨てたとしても、神様のために愛したとすれば、すべてを愛したという位置に立つのです。ですから統一教会の皆さんは、世界のために生き、神様のために生きるべきなのです。皆さんが先生のことを好きだというくらい、世界を愛し、人類を愛したとすれば、天国へ行くことができるのです。

 父なる神様というように、神様は親です。本来堕落しなかったならば、アダムとエバが父母であると同時に、国の王となるのです。天国の王になるのです。宇宙の王になるのです。ですから愛する孝子は天国へ行くことができるというのです。愛する忠臣と孝子は、天国へ行くことができるということです。夫を神様のように、主のように、王のように思って仕え、真の愛をもって生きる人は、天国へ行くことができるのです。父母を愛し、その国と世界を愛することなくしては天国へ行くことができないという論理が、そこで成り立つのです。

 人間の堕落とは何でしょうか。堕落した子女とは何でしょうか。彼らは、神様が自分の父であると切に感じることができません。彼らは心の中に神様という概念をもっていないのです。皆さんは次のようなことを体験し、悟らなければなりません。

 まずは「私は新生して新しい生命を得て、真の父母によって新たな生活を営んでいる神様の息子、娘である」という事実を実感しなければなりません。

 第二には「私は神様の国に住む資格をもった市民である」ということを実感しなければなりません。

第三には、皆さんが国と世界を見るときに、神様の愛を感じなければならず、「神様がこの世界を遺産として下さったので、神様の子女としてこの世を所有する権利がある」と思わなければなりません。

 私一人では天国に行くことはできません。そのような意味で、一人の男性は一人の女性と一つにならなければなりません。そのような過程を経るためには、一人は必ずカインと一つにならなければなりません。相対的環境を必要としているのです。父母を迎える前に、もしくは夫婦を迎える前に、兄弟の間で一つの相対的基準をもっていなければ(天国へ)行くことができないというのが、統一思想なのです。

 皆さんが知らなければならないことは、地上で天国の愛を体験できなかったならば、天上に行くことができないということです。カイン的な人を本当に愛したことがありますか。天国へ行くにはサタン世界における父母の愛、夫婦の愛以上の愛で愛さなければなりません。もし、堕落世界で父母が子女のために命まで捧げたとすれば、私たちはそれを超越した愛で愛さなければならないのです。

 皆さんの心の中に、皆さんの生活の中に神様の愛があふれて、ぽたぽたと滴るようでなければなりません。愛がぽたぽたと滴れば、希望がありますが、愛が乾いているとするならば、皆さんとその家庭は滅びるしかないということを知らなければなりません。愛の乾いた人は、愛の国の国籍から除名されるという事実を知らなければなりません。愛の伝統の世界から除外されるしかない運命になる、ということをはっきりと知らなければなりません。

 皆さんは、夫婦の愛と父母の愛を尊重できてこそ、天国へ行くことのできる資格者となるのです。自分たち夫婦が愛し合う以上に、両親を愛し、自分の両親を愛する以上に、おばあさん、おじいさんを愛さなければなりません。それが天国の核心であり、理想的モットーとなるのです。

 天国に行く人とは、どのような人でしょうか。神様よりも自分の息子をより愛する人は、天国に行くことはできないのであり、神様よりも妻や自分自身を愛するようでは天国に行くことができないのです。

 「私は劉孝元です。地上では先生の一番弟子として長い間協会長を務め、み言を受けて『原理講論』を執筆し、世界的経典とならしめたので、霊界では最も高い地位を占めることと思っていました。ところが、先生が霊界の三位基台を編成なさったのですが、李起錫、劉孝元、朴鍾九の順でした。私は失望して不平を言いました。先生は、『ここは愛の世界であり、知性を競うのではなく、愛を競うところである。李起錫のほうが愛をより多く所有していたのだ。だから李起錫が三位基台の一番上の兄になったのだ』と説明してくださったので理解できました。私はいまだ天国へ行くことができずにいます。今行く途中です。これまでは知性的な面に傾いてやってきましたが、地上にいる妻と共に、懸命に心情的に働こうと思います。現在天国には興進様がいらっしゃいます。興進様も祝福を受ける前は天国にお入りになることができなかったのですが、四位基台を立てて天国へ行かれました。霊界は愛の世界です」

 天国には、独り者は決して行くことができません。独身者にとって天国は絶望の山河です。寂寞の山河には希望がありますが、絶望の山河というのは希望すらない状態ではないですか。(注:韓国語では「絶望」と「寂寞」の発音が似ている)

 皆さんは、天国とはどのような所だと思いますか。天国は一言でいうと、完成した人が行って暮らす所だということができます。天国は真なる愛をもった完成した人の行く所だとすれば、その真の愛をもった人というのは、どのような人なのでしょうか。人間には男性と女性がいます。神様の理想的愛が地上でどのようにして完成するかということを考えると、男性と女性を離れては完成されないという結論に至ります。完成した愛の主体性をもった男性と女性でなければ、神様の愛は完成されないのです。

 天国復帰は誰がするのでしょうか。み旨のためならば十字架の道も感謝することができ、絶対夫婦、絶対信仰、絶対実践、絶対心情を主張することのできる夫婦から初めて天国の門が開かれるのです。

 天命を受けて、この怨讐の世界において手本となるような家庭になってほしいというのがお父様の願いであることを思えば、天国に行くためには、家庭を通さずしては行けないということを知らなければなりません。

 天国へは一人では行くことができません。祝福は、天国の門をさっと越えるということなのです。天国は、家庭的に行くところです。三代の因縁をもって行くところです。ヤコブの七十人の家族も、三代が合わさったものです。そのようにしてエジプトに行ったのです。

 本来、創造原則による天国とは、家庭を中心として行くところです。父母が行って、子供が行って、自分の家門全体が行ってこそ幸福なのであり、父母は地獄へ行き、子供だけが天国へ行ったとするならば、どうして天国だということができるでしょうか。ですから、統一教会が今後天国へ行くことのできる道を築くにおいて、家庭的な基準を立てなければなりません。そうしなければ天国へ行くことはできません。家庭を中心としてサタンの讒訴し得る基準を脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。

 一人では天国に行けません。一人では絶対に天国へ行くことはできません。アダムとエバが二人で堕落して地獄の門を開いたので、一人では天国へ行くことはできないのです。ですからイエス様も天国に行くことができず、楽園にいるのです。イエス様も新婦を迎えて初めて天国へ行くようになっているのです。今日のキリスト教信徒は、このようなことを知りもせずに、みな「イエス様についていく」と言います。そうなれば、彼らは行って、再び戻ってこなければなりません。家庭を築き、家庭的な復帰の基準を立てなければ、天国へ行くことはできないのです。ですから、統一教会で祝福をしてあげるのです。

 女性が先に罪を犯したので、女性神である聖霊が来て母の実体として現れ、罪を洗い、世の中を清めたならば、イエス様は、新郎として新しい種をもって再臨しなければなりません。再び充電して、新たな天地の真の父母の血族として、神様を中心とした新しい世界をつくろうというのが神様の目的です。そのような世界ができてこそ、神様の計画がみ意のままに成されたということができるのです。目的もなしに六千年の間摂理してこられた神様だとすれば、そのような神様は信じる必要すらないのです。

 天国とはどのような所でしょうか。男女が共に家庭を築いていくところです。ところが、イエス様はこの地に来られて新婦を探し求められず、息子、娘をもてずに亡くなられたので、今まで楽園で二千年間祈祷しながら、聖霊に役事させていらっしゃるのです。

 本来神様は、夫は天国に、妻は地獄に行くというように創造されたのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち父と母と息子、娘が氏族を成し、民族を成し、国を成そうとしたのでした。そうなるべきではないでしょうか。ところが、人間が堕落したので地獄が生じたのです。

 統一教会でいう天国とは、一人で行く天国ではなく、家族が共に行く天国です。神様の創造理想から考えると、男性と女性が分かれていくところが天国でしょうか。そうではありません。二人で行く所が天国です。父親が行けば母親も行き、両親が行けば子供も一緒に行く所が天国なのです。天国へはお父さん、お母さんが一緒に行かなければなりません。お父さんは天国に行くのに、お母さんは地獄に行くというのでは、天国だと言えるでしょうか。このような立場から、私たち統一教会は歴史的な宗教です。

 天国というのは、人間が堕落せずに、この地上で神様の愛の懐で成婚し、神様の喜ぶ息子、娘、神様の喜ぶ孫を得て神様の愛を受け、その家庭がみな一緒に行く所です。子供が行けなくても、自分さえ行ければ良いというのは天国でしょうか。

 ところで、楽園というのは、いくら仲の良い夫婦や親子でも、別れて行くのです。家庭とは何ら関係がありません。そのような所が天国でしょうか。両親と共に家族全員が行って、神様を中心として授け受けすることのできる、そのような世界が天国です。息子は地獄で死にそうだとあがいているのに、親が天国でいい暮らしをすることができるでしょうか。そのような所を天国だと言えるでしょうか。

 天国へは、個人的には絶対に行くことができません。先生が知っているところでは、天国は、これまでキリスト教徒が信じているような妄想的な所ではありません。本来天国は、家庭単位で行くようになっています。家庭が行くようになっているのです。家庭が行くのです。お父さん、お母さん、息子、娘が一緒に行って神様を中心として、共に生きることのできる所が理想的な世界なのです。ところが、父親は地獄へ行き、母親は天国へ行き、姉は地獄へ行き、弟は天国へ行くというのでは、自分が天国へ行ったとしてもうれしいでしょうか。天国へは、家庭単位で行くのです。家庭が行くのです。

 天国へ行く秘訣とは何でしょうか。天国へは個人で行くのではありません。家庭的に行かなければなりません。家庭的に行かなければならないというだけではなく、一族を率いていかなければなりません。この地で神様の前に多くの一族がいるということは恵まれたことです。家庭にたくさんの息子、娘がいて富裕であれば、恵まれた家庭だといいます。そのように恵まれて天国へ行こうとするならば、個人が一人で行くのではなく、家庭的に行かなければなりません。


 五 家庭盟誓

  一) 家庭盟誓をすることができる者


 家庭盟誓をすることができる家庭は、心と体が一つになった立場にある家庭です。心と体が一つにならなければ、家庭盟誓をすることができません。これを毎日のように唱えながら祈祷するとき、ここに不合格のすべてのものを除去して、そこに合致し得るものを加えて、解放の心身統一圏を備えなければなりません。その立場でするのです。

 家庭盟誓のとおりにならなければなりません。この家庭盟誓を唱えるにおいて、「私たちの家庭は真の愛を中心として」これが標題です。それは堕落圏を越えたということです。偽りの父母の愛と、偽りの生命と、偽りの血統を中心として分かれたものが、統一されることを言います。「真の愛を中心として」と言うときは、心と体が一つになった立場で唱えなければなりません。

 その次には男と女、夫婦が一体となった立場で、その次は息子、娘が一つになった立場で唱えなければなりません。息子、娘を中心としてカインがアベルの血を流すようになった歴史的暗礁を、すべて消化しなければなりません。このようにすべて統一されて、心身統一、夫婦統一、子女統一の基盤の上で唱えるべきなのが、この盟誓だということを知らなければなりません。

 家庭盟誓は、どんな人がすることができるのでしょうか。サタン世界の偽りの父母による偽りの愛と、偽りの生命の因縁をもった人はできないようになっています。これは本然の世界に帰って、神様と堕落していない真の父母と一つになって、真の愛によって心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになることのできる基準に立った人だけが、この家庭盟誓をするようになっているのです。

 天国にはどんな人が入るのでしょうか。天国は誰でも入るところではありません。心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって、三代が暮らす家庭の四位基台基盤を成してから入るところです。ですから天国に入るには、出発することのできる基地である家庭を中心として、完全に統一しなければなりません。そうすることのできる人々が唱える盟誓文が、家庭盟誓だということを知らなければなりません。

 ですから毎日、朝食、昼食、夕食を食べる時ごとにチェックしなければなりません。そして、朝起きる時と夜になれば、必ずチェックしなければなりません。自分の心身が一つになれず、サタン的因縁を再び誘致させる立場に立たなかったかを常にチェックしなければなりません。夫婦げんかがあり得ないのです。夫婦がけんかするのは問題になるのです。

 今まで自分勝手に生きてきましたが、これは将来、天法によって治められるべき時が来るというのです。厳格です。そこには許しがありません。女性は特別に、もっと注意しなければなりません。堕落した女たちは、口をよく主管しなければなりません。口を慎めというのです。女性が重要な責任を負わなければなりません。女性がすべての責任を取らなければならないのです。

 家庭盟誓は一般の人がするのではありません。家庭盟誓は誰でもたやすくできるようにはなっていません。家庭盟誓の八つの項の初めには「私たちの家庭は真の愛を中心として」というのが前提になっています。それは、サタン世界と関係のない基盤で言う言葉です。


 二) 家庭盟誓の内容

   ①私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上

   天国と天上天国を創建することをお誓い致します。


 第一番は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建する」です。私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建するという言葉は、地上天国と天上天国を私がつくるということです。家庭を失ったので、家庭をつくらなければならないという言葉です。

私たちの家庭は真の愛によって、本郷の地を中心として、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建するというのです。本郷の地です。家庭を中心とした本郷の地です。国ではありません。それで故郷に帰らなければならないというのです。皆さんにそのような家庭があれば、故郷の地に帰って、地上天国と天上天国を成就しなければなりません。もう故郷さえ取り戻せば自然に国、世界、すべてが一つになるのです。心配する必要がありません。地上天国、天上天国が自然に築かれるのです。それは家庭で始まるのです。

 それで盟誓文の第一は何ですか。「真の愛を中心として本郷の地を求め」その地を求めていかなければなりません。「神様の創造理想である地上天国と天上天国」を完成することを誓うのではありません。創建しなければなりません。私の手でつくらなければならないというのです。悪魔の世界から完全に取り戻してこなければなりません。サタンの世界圏を完全に回復させなければなりません。分かりますか。ですから完成ではなく、創建です。

 第一番は何かと言えば、本郷の地を求めて、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建しなければなりません。失ったので、復帰しなければなりません。つくるのは、神様がつくってくださるのではなく、私たちが取り戻さなければなりません。


   ②私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様に侍り、天宙の代表的家

   庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙

   では聖子の道理を完成することをお誓い致します。


 二番目は、「私たちの家庭は真の愛を中心として」、真の愛を離れてはいけないのです。「神様と真の御父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子」、父も孝子になり、息子、娘も孝子になり、すべて孝子にならなければなりません。孝子の伝統を受け継がなければならないのです。「国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成する」というのです。「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成する」です。父母になって、息子、娘をよく育てなければならないというのです。

 「聖子」と言うとき、息子の「子」の字ですか。息子を言うのです。聖子とは何かと言えば、天の国の宮法と、天の国の法と、地上の宮法と、地上の法とをみな守ることです。二つの世界を言うのです。天の国に王権があり、民がいれば、どちらもこの法を守らなければならないのです。霊界も王権があり、プラス・マイナス、二つの世界のプラス・マイナスになるのです。

 神様と真の御父母様に侍って、代表的な家庭となり、中心家庭となって、家庭では孝子、孝女、国では忠臣、烈女、世界では聖人、天地では聖子の道理を天が願ったすべてのことを私たちの家庭で完成しようというのです。父母として子女教育と、国家では国民教育と、世界では、天地では、その天の国の一族、家庭、食口としての合格者になれるようにつくろうということです。

 二番目は何ですか。代表的家庭です。「神様と真の御父母様に侍り、代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成すること」を誓わなければなりません。今まで歴史時代に神様に不忠、親不孝だった、すべての逆賊となったこれを踏み、片づけなければならないというのです。

 家庭にもそのようなやからが多かったし、国家にもそのようなやからが多かったし、世界にもそのようなやからが多かったし、天地にもそのようなやからが多かったというのです。多かったのですが、そのすべてのものを代表してみな真の父母と一つになって、このような家庭を完成しなければならないというのです。

 その次は、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理をすべて愛を通して連結させなければなりません。アダム・エバの代表的家庭です。一番頂上の家庭です。頂上で結婚すれば地上に着陸するのです。天上で愛を中心として着陸すれば、中心家庭になるのです。それは聖子の家庭であり、聖人の家庭であり、忠臣の家庭であり、孝子の家庭だというのです。永遠にそれが種になります。実は同じです。千代、万代この原則に立脚した人になることによって、間違いなく天の国の民になるのです。


   ③私たちの家庭は真の愛を中心として、四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成するこ

   とをお誓い致します。


 三番目は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成することをお誓い致します」です。皆さんは四大心情圏と三大王権をみな知っています。それは堕落する前のアダム・エバが、四大心情圏と三大王権を成して、皇族になることでした。それでこれは、復帰された皇族をつくって入ることを言うのです。私たち祝福家庭がこれを成さなければなりません。

 女性が男性の愛を受け、男性が女性の愛を受けるためには、この立場に立たずしては愛することができないようになっているのです。夫婦関係で愛するのは、四大心情圏と三大王権の立場でするようになっているのです。愛がなければ、四大心情圏と三大王権があり得ないのです。ですから男性が女性に絶対に必要だし、女性が男性に絶対に必要なのです。祝福家庭はこれを標準として、毎日のように努力しなければなりません。実際問題です。みな目の前にいるのです。

 三番目は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成する」です。これはアダム・エバが初愛を中心として成すべきことをみな成せなかったので、これから本然においてこれを成すのです。聖子とかなどはみな復帰的内容があるので、それを育ててこのように越えていかなければなりません。「四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成する」、これです。

 皇族圏というものは、これから来られる再臨主の直系の子女たちは、蕩減条件がないのです。蕩減条件に引っ掛かりません。これは何かと言えば、直系ではなく、地上でカイン圏の女性とカイン圏の息子に残してあげるのです。お母様を中心として見てもそのようになっているのです。聖進のお母様と聖進を中心としてそのようなことが起こるのです。それは何かと言えば、カイン圏をみな皇族圏として認定することです。弟として、復帰された弟の立場に立てて、皇族扱いすることによって、サタンが讒訴する道がなくなるのです。

 サタンがなぜ認めるかと言えば、自分の息子だと言うことのできる条件ができないからです。皇族圏というものを認めなければ、堕落したサタン圏内に皇族を離れた群れがいるということになるので、サタンが残るというのです。しかし皇族圏を認定するので、サタンがなくならなければならないのです。これは重要な言葉です。

 四大心情圏と三大王権を完成しなければなりません。おじいさんは神様の代身です。お父さんは二世の中心になっているので、この世界家庭の王になるのです。お母さん、お父さんを王と后のように侍らなければなりません。おじいさんは神様のように侍らなければなりません。それで二つの愛を迎えることによって、神様の代わりにお母さんとお父さんの二つの愛を受けることができることによって、孫の時代に入って、地上天国と天上天国の拡大世界に越えていくのです。

 それをすることによって初めて、神様の本然的理想型、堕落していないアダムの本然的理想型である四大心情圏と三大王権を完成するようになるのです。「真の愛を中心として、四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成することをお誓い致します」。そのようになった家庭がそうすることのできる立場に出ていくのです。神様と真の御父母様に侍って、天下の代表、イエス様のような世界完成した立場に立って神様に対するようになるとき、サタンと永遠に関係がなくなるのです。今まで世界の人が怨讐になり、長子の立場で天の側であるアベルを殺してきましたが、殺してしまうことができないというのです。

 知ってみるとお兄さんだったというのです。お兄さんの立場から弟の立場から入れ替わっただけであって、兄弟です。ですからこのような群れを、世界の人々を、皇族として扱うのです。統一教会がアベル的皇族なら、サタン世界はカイン的皇族です。この統一教会の教会員たちはカイン的皇族を一つにしなければ、天国に入れないということです。父母様と一つになって、これをしなければなりません。ここには反対がなく、順理的にみな従っていくようになっています。


   ④私たちの家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し、

   自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓い致します。


 四番目は、「私たちの家庭は真の家庭を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し、自由と平和と(統一と:はあとから加えられたので、この時のみ言にはない)幸福の世界を完成する」です。「私たちの家庭は真の愛を中心として」これは同じです。「神様の創造理想である天宙大家族を」どんなに大きな家族でも一つの家庭です。霊界に行けば、一家庭だというのです。「形成し、自由と平和と(統一と)幸福の世界を完成する」です。そこに形成することによって、天宙的な自由、天宙的な平和、(天宙的な統一、)天宙的な幸福が宿る世界を完成するという意味です。

 「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し」、神様の理想は世界がみな一つの家庭です。一家です。四大心情圏と三大王権を完成した人々が呼ぶ場なので、神様を中心とした一つの家庭であって、二つの家庭になることができないというのです。創造理想である天宙大家族を形成し、私たちは世界が一つの家族です。

 「天宙大家族を形成し、自由と平和と(統一と)幸福の世界を完成することをお誓い致します」、自由というのは、個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人々の自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がみな幸福だということです。

 その次に四番目は何ですか。神様の真の愛を中心として何ですか。「創造理想である天宙大家族理想を形成し、自由と平和と(統一と)幸福……」このような基盤があって、神様が願う創造理想は大家族です。カイン・アベルの世界が大家族です。本然の理想を、初めて四大心情圏と三大王権をすべて成したその場に大家族理想を完成するのです。そのような立場に立つことによって、自由と平和と(統一と)幸福の世界を完成することをお誓い致します。これがこのように順理的になっています。


   ⑤私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統

   一に向かい、前進的発展を促進化することをお誓い致します。


 五番目は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かい、前進的発展を促進化する」です。前進的発展は、毎日のように発展することです。ストップしないのです。ストップすればすべて地獄と連結されるのです。前進的発展をしなければなりません。前進的発展を促進化するというのです。

 私たちの信仰生活は毎日、天と霊界に関心があります。今まで統一教会の教会員たちが霊界を中心として毎日の生活をしなければならないのに、そのようにできないのが問題です。考えてみてください。この世に関して先に考え、霊界に対する考えは後回しです。その反対にならなければなりません。私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かって、一つにならなければなりません。ストップするのではなく、前進的発展をしなければなりません。

 生きているものは発展するし、死んでいるものはストップするのです。また促進化するというのです。止まるものは地獄と連結され、成長は繁栄と連結されるのです。天国に連結されるというのです。私たちに止まるということは必要ありません。皆さん、統一教会に入るときは喜んだのに、今まで十年、二十年たってみるとどうですか。ストップは下がっていくのです。ストップは地獄に連結され、成長は天国に連結されます。ストップはサタンが一番願うことです。

 ですから毎日、一つずつプラスしなければなりません。重要な言葉です。これまでこの世ではみなお金を集めようと必死ですが、私たちは一人の生命を救うために必死にならなければならないのです。

 私たちの家庭は毎日、主体的天上世界、主体的な大きな天上世界があるということを知らなければなりません。どこがプラスかと言えば、霊界がプラスです。心がプラスであるのと同じです。体は世界を代表し、心は霊界を代表するのです。心はプラスのようなもので、体はマイナスのようなものです。ですから主体的心の世界が分からない生活をしたならば地獄に行くようになるのです。

 体が心を打つのと同じように、心を否定してきましたが、これを反対にしなければなりません。それで「毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一」、主体世界と対象世界が統一されなければならないのです。「統一に向かって前進的発展」、前進していく発展です。「前進的発展を促進化することをお誓い致します」、促進化、早く、早く、早くするようにするのです。

 停止してはいけません。停止すれば、もう落ちるのです。地獄と通じ、死亡と通じるのです。停止は下がっていって地獄と通じ、死亡と通じるのです。停止は下がっていって地獄と通じ、促進は発展と通じるのです。促進、急ぐのです。寝てばかりいて、怠けて食べ、楽しみ、そんなものは歴史にないというのです。忙しいというのです。人生は短いのです。宇宙が大きいですが、焦点は一点と同じように、焦点が一周回れば、これも一周回らなければならないというのです。同じように回らなければなりません。ですから焦点を合わせなければならないというのです。

 それで「私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かって前進的発展を促進化することをお誓い致します」です。休まずに走れというのです。先生のようにです。寝もせずに走れ走れ、というのです。そうして私が考えたその世界と関係を結ぶのであって、考えもしない世界に関係をどうやって結びますか。そうしてこそ統一されるというのです。一緒に考えてあげなければなりません。相対的に考えてあげなければならないのです。

 家庭盟誓の五番は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かい、前進的発展を促進化することをお誓い致します」。これは世界がみな同じ家庭だということです。天地にすべて主体的天の国の相対的立場で一つにならなければなりません。一つになるだけでなく、地上に地上地獄分野、サタン圏が残っているので、早く促進化させなければなりません。一日が忙しいのです。


   ⑥私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様の代身家庭として、天運を

   動かす家庭となり、天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成することをお誓い致します。


 六番目は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様の代身家庭として、天運を動かす家庭となり、天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成する」です。自分だけいい暮らしをしようとしてはいけないというのです。「私たちの家庭は真の愛を中心として神様と真の御父母様の代身家庭として」、ですから天運が神様と真の御父母様と共にあるのです。天道を動かす、天運を動かす家庭となって、天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成するというのです。その言葉は、どこに行っても私たち祝福家庭たちは全体に福を分けてあげることのできる中心家庭になるということです。

 六番目は、「私たちは真の愛を中心として……」真の愛を知っているでしょう。いつも考えなければなりません。「神様と真の御父母様の代身家庭として……」神様の家庭と真の父母の代身家庭です、皆さんが天運を動かす家庭となって、神様と真の父母の代身家庭は天運を動かす家庭です。

「天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成することをお誓い致します」。天のみが祝福を受けて、いい暮らしをしようというのではありません。結局は王族となって、全体の人々を国民につくらなければならないということです。真の愛を中心として、神様と真の父母の代身家庭として、天運を動かす家庭となり、神様と真の父母の代身家庭は天運を動かすというのです。

 「天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成することをお誓い致します」。天のすべての祝福を万民の前に平等に分けてあげる家庭的福の基になろうというのです。神様と真の父母の家庭は、一つの家庭です。一つの家庭ですが、祝福家庭たちが多いので、全世界に広がって、神様の家庭と真の父母の家庭の代身として福を受ける基となって、分けてあげる家庭にならなければならないということです。

 天運を動かすのが六番でしょう。「真の愛を中心として真の御父母様の代身家庭として、天運を動かす家庭」になるのです。真の御父母様が受難を受けたすべてのことが、自分がいい暮らしをするためのものではありません。全人類を自分が解放し、天運を分かち、天運を移してあげるためのものです。真の父母についてくる天運を、ただそのまま渡してあげなければなりません。福の基になれということです。分かりますか。

どんなに促進化され、一つになっていても、その人が地上に来て、自分なりの福だけを受けて行ってはならないのです。地上に功績を立てて、すべての人が満足して、大きな天運の恵沢を受けられるものを渡してあげてから、行かなければなりません。

 先生が今まで幸福と自由の環境で、天下を動かすことができ、福を受けることのできるこのような環境で、父母のみ旨を立てるために、反対の道をすべて経て、万民にまで天運をつないであげるためにやってきたので、真の父母の家庭の代表者として、皆さんも天運を分配してあげる家庭になってこそ、真の父母のあとに従って、天の国で呼吸を共にし、面と向かって暮らすことのできる面目が立ち得るということを言うのです。

 その次は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様の代身家庭として、天運を動かす家庭となり、天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成することをお誓い致します」。福の基になれというのです。そうしてこそ天と地の一つとなったすべてのものを備えて、その場を中心として、神様が下さった福の基になるのです。分かりますか。福のセンタ・になれというのです。


   ⑦私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の血統と連結された為に生きる生活を通

   して、心情文化世界を完成することをお誓い致します。


 七番目は、「私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の血統と連結された為に生きる生活を通して、心情文化世界を完成する」です。「私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の血統と連結された」本然の血統です。血統が重要です。血統が変わってはならないし、汚してはいけないのです。心情文化世界の形成を完成するというのです。心情文化というものは、すべての生活において、真の愛によって為に生きる思想が入っていなければならないのです。心情文化世界と言うときは、全体を代表した一つの囲いを言うのです。心情圏の氏族(宗族)を言うのです。

 心情文化世界が何か分かりますか。神様の心の世界も、天上世界も、地上世界も、真の父母の心の世界も、一つだというのです。それで「心情文化世界の形成を完成することをお誓い致します」、これが私たちの理想です。文化が二つではありません。堕落した世界は文化が複雑多端なのです。それを通してこそ個人天国、家庭天国、氏族天国、国家天国、天上天国、永遠の世界の天国へと連結されるのです。その心情でなくては、個人、家庭、氏族を連結することができません。心情文化世界でなければ、個人から天宙まで連結することができないのです。

 私たちの世界は心情文化世界です。神様のただ一つの愛を中心とした統一家族、一家族です。高いもの低いものがなく、五色人種が一つの家族生活をしなければなりません。将来、そのような時が来ます。全世界が動員して平均的な生活を定めよう。世界の公義がそのようになったらどのように定めるのか。どの国を中心として定めるのか。このように言うときは、北韓があのように貧しければ、貧しい北韓を中心として基準にするのです。アフリカではありません。アダム国家ならアダム国家、日本の国ではありません。アダム国家を中心として一番貧しい人を基準にするのです。

 心情文化世界は本然的神様の文化世界であり、堕落していない完成したアダム文化世界です。文化が二つではありません。一つしかありません。言語も一つであり、風習も一つであり、伝統も一つしかない、このような統一の世界になることでしょう。そこにおいてのみ神様が個人にも共に住み、家庭にも共に住むということを知らなければなりません。

 その次には、「私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の血統と連結された心情文化世界を完成することをお誓い致します」。心情世界です。真の愛が表面化された世界です。どの町に行っても、道の要所で夫婦がお客さんを迎えるために待ちわびる世界にならなければなりません。

 ごちそうを作ったなら、それを世界の兄弟の前に分けてあげるために、道に出て待ち、迎えて入るのです。自分の兄弟のように自分の家に世界の家庭を迎えて、多くのものを食べさせ、たくさん奉仕する時代に入っていくのです。こうして心情を表面化させて、世界化させる時代になることによって、統一の心情文化世界、単一文化世界、統一文化世界が来るのです。戦争がなく、紛争のない一つの世界、地上天国と天上天国世界になるのです。心情文化世界になれば、終了だというのです。


   ⑧私たちの家庭は真の愛を中心として、成約時代を迎え、絶対信仰、絶対愛、絶対服

   従によって、神人愛一体理想を成し、地上天国と天上天国の解放圏を完成することを

   お誓い致します。


 八節は何ですか。「私たちの家庭は真の愛を中心として、成約時代を迎え、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、神人愛一体理想を成し、地上天国と天上天国の解放圏を完成することをお誓い致します」。それが何かと言えば、エデンの園の神様が創造するその当時の内容です。

 成約時代を中心として絶対信仰、絶対愛、絶対何ですか。絶対服従によって地上天国と天上天国が神人愛一体圏となって、神様のような息子、娘のすべての権限も自由奔放の世界どこでも通じることのできる、活動することのできる能力者になってこそ、初めて神様を解放させることができるのです。地上天国と天上天国の解放圏です。

 神様が創造するとき、神様自体が絶対信仰、絶対愛、絶対服従する位置にいたので、その相対的家庭を成すことができずに、みなすべて地獄に落ちたのです。真の父母の勝利圏によって一つになったすべての基盤において、絶対信仰、絶対愛、絶対服従することによってアダム家庭で失ったものを世界的に越えていくこの時であるがゆえに、統一教会は真の父母を中心として、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をしなければなりません。真の父母は神様の前に絶対信仰、絶対愛、絶対服従の伝統を受け継いできたので、それを伝授されなければなりません。分かるでしょう。天の祝福が共にあることでしょう。

 宿命的課題と運命的課題であるすべての父子の関係の因縁が一つにならなければなりませんが、何を中心として一つになるのでしょうか。骨髄から、赤ちゃんの種から、真の愛を中心として一つにならなければなりません。それで生まれて今、心と体が大きくなって、世の中をすべて抱いて、父も抱いて母と一つになるのです。

父母様が言うそこには、絶対信仰、絶対愛、絶対服従、おじいさんが言う時は、孫も絶対信仰、絶対愛、絶対服従。お父さんも絶対信仰、絶対愛、絶対服従、同じです。永遠に伝統的に相続されていくというのです。宿命的提案解怨! こうしてこそ第八盟誓においての成約時代を迎えて、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、神人愛一体、神様と人間が一体、愛によって一体になるのです。一体を成して、その次には、そこから地上天上天国の解放圏です。


第三章 国家、世界観

 一 人類が追求してきた一つの国家、世界

) アダム主義、アダム国家、アダムの世界


 本来、人間始祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダム家庭でのアダムは、族長になるのです。族長になると同時に民族長になるのです。また国家の代表者となり、アダム王となるのです。それゆえ、この世界はアダム主義で一つに統一されるのです。つまらなくみっともない主義たちは、ほうり出さなければならないのです。くだらない主義が現れて世界を攪乱させているので、私たちはこのような主義を根こそぎ全部引っこ抜いてしまわなければならないのです。

 主義もアダム主義、言語もアダム言語、文化もアダム文化、伝統もアダムの伝統、生活方式もアダムの生活方式、制度もアダムの制度、すべてのものがアダム国家の理念制度にならなければならなかったのです。このような主義は「神主義」です。神様の心によって神様と一つにならなければならないので「神主義」と言うのです。

 家庭を中心として見るとき、堕落していないアダムとエバの家庭が、アダムとエバ二人だけの家庭でしょうか、宇宙を代表した家庭でしょうか。その次に、神様においてその国は、誰の国でしょうか。神様の国ですか。アダム、エバの国ですか。神様との共同目的をもった、神様を中心としたアダムとエバの国です。そして、その国が拡大されたのが世界ですが、その世界もやはり神様を中心とした世界です。それを知らなければなりません。

 私たちはどこに行くのでしょうか。天国ですが、家庭的天国から、氏族的天国、世界的天国、宇宙的天国に行くというのです。そこまで行かなければならないのです。地上での世界を自分の国と思い、万民を自分の兄弟と思い、世界を中心としてこのように伝統を受け継いだ人は、間違いなく天国に一番近いところに行くのです。これは理論的です。

 皆さんが天国に行くとき、「うちのお父さん、お母さん、息子、娘を連れていく」と、こんな考えをしないでください。「国を連れていく」と言わなければなりません。国を捨てて自分の家庭を中心として、「ああ! 私の息子、娘よ……」ではないのです。国を連れて入らなければなりません。国の中に民族がすべて入っていて、自分の息子、娘もすべて入っているのです。先生で言えば、先生の考えでは「世界を連れて天国に行かなければならない」と、このように今まで御飯を食べ、行動し、生きてきたのです。このように生きてきたので、この天上世界の中心位置に行くのです。正にこれが神様の考えです。真の父母の考えであり、真の子女の考えではないでしょうか。

 

 神様が創造した世界には国境があり得ません。黒人、白人の人種問題が問題になりません。善悪の闘争もそこには必要ないはずです。このような観点から見たとき、私たちが住んでいる世界には各国ごとに国境があります。黒人、白人の人種問題だけではなく、家庭においても夫と妻、父母と子女間にすべて分裂が起こっています。善なる人と悪なる人が闘っているのです。このような現情勢を見たとき、再臨主は国境がない国をつくり、人種問題を超越して世界を一つにつくらなければなりません。分裂した家庭を全部統一しなければならず、善悪が闘っているこの世界に平和の王国をつくらなければなりません。

 神様が確実にいることさえ分かれば、神様のみ旨についていかざるを得ません。神様のみ旨とは何でしょうか。この世界人類を御自身が愛される民につくり、この地球星を御自身が愛される国土につくり、この国土と民を合わせて一つの主権国家をつくろうというのが理想世界です。

 皆さんにはそのような国がありますか。ないので、その国を求めて成さなければならないのではありませんか。その国はどんな国でしょうか。理想の国、統一の国なのです。万民が行くことのできる国なのです。この国を成すのには例外があり得ません。ここには家庭も協助し、氏族も民族も世界もみな協助することでしょう。そうして個人を統一することができ、家庭、氏族、民族、国家、世界を統一することができるのです。

 人は誰でも自分の国で生きるべきです。それは人間に賦与された絶対的な条件です。一人も漏れなくその国とその義のために希望に満ちた義の生活をしなければなりません。思いによって理想郷を描き、生活によって義の法度を立てながら、その国とその義のために生きよというのです。

 普通、世界主義と言えば、民族と国家を無視して全世界を一つの国家、全人類を同胞と見るという意味で終わりますが、統一教会で叫ぶ世界主義は、家庭からその壁を超越するのです。父母であられるお一人の神様と、血肉の本当の兄弟と変わりない同じ兄弟たちである全人類が、一つの世界を成すという世界主義です。これは、どれほど素晴らしい世界主義でしょうか。

 天国とはどのようなものでしょうか。地上天国とはどのようなものでしょうか。私たち統一教会の食口のような人が、全世界に住むのです。それが地上天国です。この地上のすべての人たちが統一教会の食口のように住めば、それが地上天国です。その世界とは、神様と共にある世界です。誰かが「神様はいない」と言うこともなく、神様に対して疑いません。神様を私たちの父として、すべてが一つになった世界です。その次にサタンの誘惑……。サタンがいないのです。神様が主管する世界、それが地上天国です。神様が私たちと暮らすのです。

 これからこの世界問題を解決して、人類の道徳問題をすべて解消させるためには、堕落論がなくてはならないのです。堕落論なくしては人間の問題が是正されないのです。これは、サタンが天を裏切って歴史を引っ張ってきた最後の絶望的終末現象だというのです。これは人類を破綻、滅亡させるための戦略です。これを解消しなければ歴史が解かれないのです。歴史が解かれなければ歴史を清算することができないのです。これに対する代案を中心として、神様の創造と理想の代案を中心として、私たちは神主義に帰ろう、真の愛主義に帰ろうというのです。それは自分自身のためではなく、為他的なのです。愛の相対を創造しなければならないというのです。そのような内容でなければ収拾する道がありません。

 結婚をなぜするのでしょうか。神様の愛を中心として、神様に侍り、男性、女性を統一するためです。天下の起源、平和の起源はここから始まるのです。真の愛の本質は父と母のために生き、母が父のために生き、兄が弟のために生き、このように「ため」に生きることです。「ため」に生きる愛によって、もつれてしまったそこに永遠な神様の愛が臨在することにより、その家庭は永遠無窮の永生的家庭になるのです。これを統一思想と言います。


  二) その国は私たちすべての願い


 私たちは、神様の国を慕い仰ぎます。そこは、愛があるところだからです。一時的な愛ではなく、時間を超越した永遠なる愛が存続することができるところです。また、自分自らを高めることができるところであり、自分の価値を一〇〇パーセント認定してくれるところだというのです。すなわち、永遠に幸福なところです。ですから人間は、天国を慕いあこがれるのです。

 もし地上の国家を復帰することを自分の生涯に果たせなかった場合、皆さんは霊界に行っても天国に属した人としての価値をもつことができません。地上で神様の主管圏内で統治された実績をもって、霊界に行かなければなりません。それは本来の創造基準なのです。

 私は今、世の中にうらやましいものがありません。この世的に見てもうらやましいものがありません。この世的なものには考えがいきません。何、お金の端切れ、土地の端切れ、家の端切れ、そんなものには関心がないのです。「部屋一部屋でも何でも、死ぬとしても私の国で死ななければならない。神様が保護することができるその国で死ななければならないのではないか。私がそのように生きていくことができなければ、その生涯は悲惨な生涯ではないのか。だから死ぬ前に一日でもその国を求めていかなければならない」と、これが先生の一生の願いです。その日のためには、数千日の犠牲を投入しようという心で前進しているのです。皆さんは休んでも、私は前進しているのです。皆さんができなければ、外国人を動かしてでもやらなければならないし、大韓民国ができなければ、外国を通して包囲作戦をしても行かなければなりません。

 私たちの信仰の目標は、神様の国の民になることです。その国の民になれなければ、その子女として自由自在に万民、あるいは万物世界に誇り、愛される道は現れません。国がない者は常に攻撃されるのです。かわいそうな立場に立つようになります。あきれるほどやられる場合がいくらでもあるのです。ですから神様が願う国がどこにあるのか、神様が足場とする国がどこにあるのか、これが問題です。

 私たちがこの国、この民族のために血と汗を流すのは結局、永遠なる天の国を成すため、千秋万代の後孫たちがとこしえに褒めたたえることができる福地を成すためです。

 その国は、神様を中心として直系の子女が天命を奉じ、神様に代わる命令をもってその王権によって治め、そのような国であることは間違いありません。そこには、民主主義や共産主義があり得ないというのです。一度形成されれば、永遠な国家体制として残るというのです。そのようなことを考えるとき、私自身がそのような国の民になれなかったという事実が怨痛なことではないかというのです。私自身がそのような国で暮らせないことを嘆かなければなりません。そのような一つの私を備えることができないことを嘆かなければなりません。そのような一つの不変の主権をもつことができなかったことを、私たちは嘆かなければなりません。

 主権と国と国土を建てるために、人類は主権国家を建ててきました。その中で数多くの人が死に、数多くの民が犠牲になり、数多くの国が滅び、数多くの主権が交代してきた事実を知らなければなりません。そのように犠牲になった数多くの人、天の側にいる人たち、あるいはそのようなみ旨のために犠牲になったすべての哀魂は、ある一時にそのような国、そのような世界を成してくれることを願うのではないでしょうか。

 神様が愛する息子、娘を地上に送り、絶対的な天の国家を建てるためのことを進めてきましたが、現時点で一つの国家を復帰し得る基盤をつくることができませんでした。何度も失敗したのでこの地上に天の人を送り、それを経営させて推進させ、成就させるために努力してきたのが、今までの天の役事だったのです。

 主権のない国の国民はかわいそうなのです。それでイエスが案じて「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ六・三一~三三)と言われました。先に息子を求めよと言われましたか、国を求めよと言われましたか。神様が望んでいる国を求めよと言われたのです。

 イエス様も楽園に行って待っているのです。天の玉座の前に行けなかったということを知らなければなりません。イエス様は神様の前に国の主権を建てて国を治め、地上から天国まで直通し得る権限をもった国をつくれなかったので、神様の前に立つことができないのです。ですから楽園は、天国へ行く待合室です。また、天国へは一人では行けないのです。天国へは本来堕落していないアダムとエバ、家庭単位で行かなければならないのです。息子、娘と共に行かなければなりません。そうでなければ行けないのです。

 今まで宗教人たちは、生き残ることのできないようなことをしたのでしょうか。宗教に協助してくれる家庭もなく、社会もなく、国もなかったからです。国がない民なのです。国があったならば、氏族が反対する立場に立ったとしてもその国圏内に生き残る道があったのですが、今まで宗教を信じた人たちはどこに行っても迫害され、どこに行っても血を流す祭物の道を歩んできたのは何のためでしょうか。国がなかったからです。主権者がいて国があったならば、「やあ、お前たち、これが正しいのだ」と言えば、「はい」と言うのに、国がないので……。国がない民なのです。

 今日、この地上に霊的救いを完成した世界圏、キリスト教文化圏の世界が民主主義世界です。ところが神様が選定したイスラエル民族が選民思想を受け継いできたのと同じように、その選民を定め、間違いなくお前の国にメシヤを送ってあげようとイスラエル民族に対してきたのに、その約束と共にあるべきキリスト教国家が世界にはないのです。皆さん、これを知らなければなりません。ですから地を失い、国もなく空中に名前だけもったその国を追求して、東から追われれば西に逃れ、北から追われれば南に逃れ、彷徨しながら、死の道を避けながら世界的な発展をしてきたのがキリスト教文化圏の世界です。

 統一教会員たちも国がないのです。今の民主主義の世界も、神様が六千年間苦労してつくってこられたのです。もし皆さんが昔のイエス時代のイスラエルに生まれていたならば、皆さんの首は既に落ちて久しいはずです。先生のような人は既に、この世の中には痕跡もなくなっていたことでしょう。国家的に不義のサタンの代役者がいるかと思えば、現在の世界的な不義の代弁者である共産主義が宗教を抹殺するための最後の背水の陣を敷いているというこの厳然たる事実を、私たちははっきり知らなければなりません。私たち統一教会員たち、国がありますか。ですから賤しい者ではないですか。行く所がない賤民扱いを受けたのではないですか。その誰よりも悔しいことを忘れてはならないのです。

 国がなければ、いくら良い幸福な家庭であっても、馬賊が出てきて首を切られることがあり得るのです。ですから国を求めなければなりません。これを宗教人たちは知らないでいるのです。宗教人たちは全く知りません。善なる国を求めなければなりません。これが宗教の目的です。

 その国を探すことができる代表的な一人の個人はどこにいるのでしょうか。この地上にはいません。それで宗教を通してそのような代表的な一人の方に仕えようとする思想が、再臨思想です。この再臨思想を中心として新しい個人が現れるのです。新しい家庭、新しい氏族、新しい民族、新しい国家、新しい世界の形成が起こるのです。それで再臨思想は、他の思想とは根本的に次元が違うのです。

 それでその代表的な人は、死亡の世界から腐った死体を取り除き、そこに根を下ろし、それを肥やしにして大きくならなければなりません。ここで良いというものを肥やしにすることのできる力をもった、新しい主体的な人格を備えてこられる人です。サタン世界で良いというものを自分の生命体として復活の権限を誓うことのできる息子ならば息子、民ならば民が備えなければならない人格を見るとき、この死亡の世界、腐った死体のようになったものを肥やしにして大きくなることのできる主体力をもった人格者でなければなりません。言い換えれば、死亡の世界に支配される人ではありません。

 人類を救うために来られる方が再臨主です。天は基準さえ立てられれば打ちます。攻勢を取ります。だからと言ってスターリンのように首を切って殺すのではなく、一度に降伏させるのです。一番目は理念、二番目は民、三番目は主権、四番目は領土でサタンを降伏させなければならないのです。人は誰でも、お金と権勢と友達と理想が共にあることを願いますが、その四つは正にこれを代表したものなのです。


 二 理想社会、国家、世界の構造

  一) 人類大家族社会


 私たちが住みたいところは天の国、天国で暮らしたいというのが合っています。天の国に境界線がありますか。ありません。天の国で使う言葉は二つですか。違います。人種の差がありますか。ありません。それでは天の国とは何なのでしょうか。人はみな神様の懐から生まれたので、人類はみな兄弟です。神様を中心として見れば神様の息子、娘なので、すべてが兄弟であり、地上天国を中心として見れば民となります。地上天国の国民だというのです。民だというのです。

 完成した人はどのようでなければならないのかというと、天と共に世界的な一つの国民にならなければなりません。皆さんはどの国の人でしょうか。皆さんにはアメリカ人、ドイツ人、韓国人といろいろいますが、私の国はどこにあるのでしょうか。この地球です。この地球が私の国です。私の故郷とはどこでしょうか。この地球が私の故郷です。私は国境のようなものは知りません。黒人、白人のようなものも知りません。すべて神様の子供です。

 原理は、永遠の歴史を通じても変わらない真理です。これは、どんな偉人の権勢や国家権力でも変えることができず、世界も神様も変えることができないものです。過去、現在、未来にわたって変わらない真理だとすれば、これは人間が本来願う理想的な価値をもっているものに違いありません。この原理によって復活した人たちが国家を超越し、世界を超越して一つになれば、すべてが兄弟なのです。そこには白人もなく黒人もなく黄色人もありません。考えてみてください。黒人だと言っても、皮膚の色が違うだけで、すべてが同じです。骨も同じ、肉も同じ、血も同じ、心も同じです。皮膚の色だけが少し違うのです。これは気候と環境によって異なったことなので、仕方がないことです。

 松の木を見てください。極寒地帯から温帯圏に行くにつれ、種類が少しずつ異なります。松の木が立っている地域環境によってだんだん異なり、またそれが出発した基準と歴史を通して種類が異なるのです。また、熊を見てください。北極の熊は白熊です。白色でなければ駄目なのです。それは環境のためなのです。保護色が白色だからです。白色人種は何かと言えば、北極の白熊と同じようなものであり、黒色人種は、暑い温帯地方の黒熊と同じようなものなのです。ただその違いだけです。ところで黒熊と白熊がお互いに「お前は白熊だから」、「お前は黒熊だから」と言いながら共にいることができないと言うことができるでしょうか。

 すべてが一つにならなければなりません。統一教会は結婚式を国際的に行います。西洋人と東洋人が結婚をします。白人と黒人が結婚をすることもあります。人種を超越し愛し合う姿、それは歴史にもない美しさです。そのようにならないところに問題があるのであって、それは一番美しいのです。このような主張を訴える世界的な思想がなければ、人類は滅亡してしまいます。神様を中心として見れば人間はみな兄弟です。神様の前ではすべてが一つになれないわけがありません。アメリカの建国精神は「神様のもとの一つの国家(one nation under God)」です。これは素晴らしい精神です。また、現在そのようになりつつあるのです。

 万民はその生きていく環境が違うだけで、人間という点で白人も黒人も同じです。もしある人が黒人の女性と結婚して暮らしながら黒人の子供を生んで、そうして再び白人女性と結婚して白人の子供を生んだとすれば、その人は白人の父にもなり、黒人の父ともなるのです。すなわち、彼らの父は一人の父だというのです。どんなことがあっても世界人類が一人の父によって生まれた兄弟だという心情がわき出すようにしなければ、世界人の統一は不可能であり、万代の糾合は不可能です。

 全世界の人種が一つになる一番の近道は、国際結婚しかありません。二つの全く異なる文化圏と環境から選ばれた男女が、神様の愛によって仲良く一つにならなければなりません。これが完全な調和と統一なのです。このように理想を実現するのが私たちです。偉大なことを成就させるために私たちは、巨大な愛の力を求めなければなりません。ただ、最高の愛の力によってのみ、そのような力を発揮するのです。社会の動きと環境によって翻弄されるような愛ではありません。最高の愛だけが国境を越え、人種の境界を越え、文化の境界を越え、知識の境界を越えるのです。

 これからどのように世界を一つに統一するのか、また、心情交流の土台をどのように築くのか、これが問題です。それで先生は、これから独身の男女を国際結婚させようと思います。これは神様が願われることです。韓国の枠の中だけで身をかがめて座っている、そのような人を神様は願われません。神様は、御自身の理念圏内ですべてのことが成されることを願われます。共産主義の女性たちは、労働者と結婚することが最高の希望です。しかし統一教会の娘たちは、それ以上にならなければなりません。

 さてこれからは、自分の家庭が異国の民族と一つになることができる血統をどのくらいもっているかということが、霊界に行って誇れる内容になります。ですからこれから皆さんの息子、娘が結婚するときには、国際結婚をたくさんしなければならないのです。これから統一教会の独身男女はみな、国際結婚をしなければなりません。男性も女性も生まれたならば、一度はやってみる価値があるのです。

 神様は公平です。アメリカは神様の祝福によって物質文明を花咲かせた代表的な国となりました。ですから外的な基準から内的な基準に急に変わることは難しいのです。反面、東洋では物質的面よりは精神的面を重要視します。西洋は外的には祝福されましたが、内的基準においては不足です。反面、東洋は内的には祝福されましたが外的基準においては不足です。神様は、これほど公平な方です。

 宗教を中心に精神面を重要視すれば、物質的な条件を退けてしまいます。東洋は精神文化を重要視して、すべての外的基準を拒絶してしまいました。それを西洋人たちが拾い集めました。アメリカをはじめとして西洋の多くの国が外的に素晴らしくなったのは、東洋のすべての物質的条件の援助を受けて西洋文明を発展させたからです。しかし、それが限界に来ています。そして東洋の精神文明も限界に直面しています。東洋はだんだん西洋文明、物質文明を要求するようになりました。西洋はまた、東洋文明、精神文明を要求するようになり、これらが交差する時点に立っています。まさしく授受作用をしているのです。

 人間にとって一番難しく大変な道とは、どのような道でしょうか。天国へ行く道です。この道が一番難しいのです。この宇宙の中で人間に一番難しい道とは、どのような道でしょうか。天国へ行く道が一番難しいというのです。イエス様が天国へ行きましたか。楽園に行っています。天国へ行く待合室にいらっしゃるというのです。ですから、これがどれほど難しいのかというのです。それでは、神様は天国で住んでいらっしゃいますか。違うのです。それでは歴史始まって以来、天国で住む人が誰かいますか。神様が住めず、その息子が住めないのに、誰が天国に行って住めるのかというのです。天国へ行って住んだ人はいるのでしょうか。いないのです。ですから一番難しい道なのです。一番難しい道。


  二) 共生・共栄・共義の社会


 神様が一番好きなものは愛の文化です。神様がお金や権力、知識などを必要としますか。いい家を設計して建てるためには、れんがも必要だし、ドアも必要だし、多くの材料が必要ですが、その中で一番重要なものは、その家を完成させる総合的な完成美を備えることです。人間に対して神様が願われる一番の願いは、お金が多いこと、学者になることではありません。聖書のみ言どおり「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言われたので、それが第一の戒めです。第二は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)と言われました。驚くべきみ言です。

 コリント人への第一の手紙第十三章の愛の章にも、「信仰と希望と愛」この三つが常にあるが、その中で一番は愛だと言いませんでしたか。人間はそれを知らなかったのです。愛……。あなたの心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くせというのはどういうことですか。生命を懸けて愛せよということです。皆さん、誰かをそのように完全に愛してみましたか。妻たる者が夫を完全に愛し、弟子なる者が師を完全に愛し、民たる者が国を完全に愛してみたのかというのです。誰も完全に愛せなかったので、モデルをつくらなければなりません。工場で鋳型を作って物を大量生産するように、その鋳型と同じような真の人間のモデルをつくらなければなりません。そうすることによって、そのモデルに倣って真の人間が世界に広く広がっていくのです。

 時が来れば、一人で主張する時代はすべて過ぎ去ってしまいます。「私が一番だ」と言えない時代です。その時からは共同時代です。すなわち共生共栄共義主義世界だというのです。だから統一教会で共生だ、共栄だ、共義だということを主張するのです。その世界は、一人で成すのではありません。

 共生共栄共義主義の世界は、人類が願ってきた理想天国の世界です。その世界は、絶対に一人では成すことができない世界です。ですからその世界は、一人だけでいる世界ではありません。「私」と言えば必ず相対がいるのであり、また家庭があるのです。これは観念だけで終わるのではなく、実際の生活において作用しなければなりません。それが生活舞台において実際に表現することができる世界が、すなわち天国の世界です。

 その世界はどのような世界でしょうか。互いに嫉視反目しながら、人がうまくいけばおなかが痛み、人が喜べば死にそうだという、そのような世界ではありません。一人の人が良くなるのは、全体を代表して良くなるのであり、一人の人がうれしいのは全体を代表してうれしいことなので、一人がうれしがれば全体がうれしがるのであり、一人が喜べば全体が一緒に喜ぶところがその世界なのです。

 

 皆さん、左目と右目の歩調が合っていますか、合っていませんか。これは共栄です。すべてが一つの目的のために生きていくのです。全部このようになっているのです。鼻の穴も二つですが、一方の鼻の穴が詰まればいいですか、良くないですか。同じように耳も一方が詰まればいいですか、良くないですか。体が不自由でいいですか、よくないですか。足を切ってしまったり、腕を切ってみてください。気分が悪いはずです。ですから相対的関係を備えたすべての存在物は、自ら天地を証明するのです。すなわち人間が自ら証明しているというのです。このように心は知っています。人心が天心という言葉も、ここに関係しているというのです。


  三) 言語も一つ


 アメリカの豚も韓国の豚もみな同じように「ブー、ブー」と言い、すずめも「チュン、チュン」と鳴きますが、万物の霊長である人はなぜこのような状態なのですか。豚の子の言葉でもなく、牛の子の言葉でもなく……。数十カ国を回ってみても、行く先々で言葉が違います。御飯をもらって食べるのも大変です。おしでも最上のおしになるのです。このような結果を誰がつくりましたか。それは一言で言うと、堕落したからです。言葉も一つに統一できず、一つの種類の言葉も使えない人間が、どうして万物の霊長でしょうか。どれだけ悔しいことでしょうか。本当にあきれて物が言えないのです。

 神様の絶対的な愛を中心に、絶対的な男女が合わさって絶対的な文化を創建しなければなりません。絶対的な文化創建のために、何よりも統一された一つの言語と文字をもたなければならないので、韓国の言葉と文字を学ばなければならないと何度も強調してきたのです。文化創造と発展は、言葉と文字によって伝達されるからです。

 これからは言葉が問題です。先生が今、韓国語で話していますから相当……。これから通訳がいなければどうするつもりですか。皆さんが私に習わなければなりませんか、私が皆さんから習わなければなりませんか。先生が話す韓国語を習えば、先生を通してもっと深い内容を学ぶことができ、もっと価値あるものをもつことができるからです。これが何よりも貴いので、そのようにしなければならないという結論が出るのです。

 真の父母の息子、娘は、その父母が使う言葉ができなければおしです。おしだというのです。今後そのような方向に世界は流れていくのです。この西欧社会にレバレンド・ムーンが来て今、かなりの波紋を起こしています。これは近世にない新しい宗教界の脅威であり、新しい問題だということを皆さんは知らなければなりません。今、事実そうなのです。これから原語の勉強には韓国語が入るであろうということを知っておくべきです。皆さんがどんなに英語になったものを読みながら「ははあ」と言っていても、韓国語の原本がこうだと言えば、すべて何度も書き換えるのです。ですから、変わらないものが価値があるのです。同じです。これからは原語を勉強しなければなりません。

 韓国の言葉と文字は、韓国で作られ、韓国で使われています。真の父母という言葉も、韓国語で初めて名前が付けられたのです。真の父母の愛を中心として、神様の真の父母の愛と、歴史始まって以来最初に接ぎ木されたのです。神様が愛を中心として言葉を話し始めた最初の出発が、真の父母を中心とした愛の基盤の上で、韓国語を通じる以外なかったというのです。それで真の父母という言葉の起源が絶対的なので、韓国語を学ばなければならない理由となるのです。またハングルは、韓国語を表記することができる文字なので学ばなければなりません。神様が愛の言葉を言うことができる最初の場所が韓国だということも知らなければなりません。

 先生が真の父母という言葉を韓国語で初めて使い始めたので、真の父母という言葉の起源は韓国語となるのです。真の父母という言葉は、英語や中国語ではなく韓国語です。それで韓国が、統一教会員にとって愛の祖国となるのです。韓国が愛の祖国なので愛の祖国を求めなければならない私たちは、韓国語と文字を学ばなければならないのです。皆さんが韓国人の男性、女性と祝福を受けたがるのも、神様の話した初愛の言葉の起源が韓国語なので、その本郷の近くに行きたいという心の発露から始まったと言えるでしょう。

 韓国語には哲学が入っています。天地の理致と調和を備えた背景をもっています。発音法において、アメリカで言語学博士号を取った有名な人もいます。

 韓国語は、極めて高次元的な宗教言語です。表現が深く繊細です。それは、どの国もついていけません。ですから韓国人は頭がいいというのです。それは、正確で分析的な言語を通して全部キャッチして理解するので、その頭の構造が相当に次元が高い位置にあるということを知らなければなりません。韓国人が技能オリンピック大会でいつも一等になるではありませんか。多分、七年間そうだったはずです。

 統一世界に向かう私たちにおいては、統一語で先生の説教集の朗読を完遂しなければなりません。皆さんがこれを原語で読めなければどうしますか。原語でです。オリジナル言語、英語ではなく、ドイツ語でもないのです。ですからこれから皆さんは、説教に対しては心配する必要がありません。これは先生が一生の間に説教したものです。

 皆さんが霊界に行って問答するとき、「私は見ることもできず、読むこともできなかった」と言うのですか。初めから英語に翻訳をさせないでしょう。ここに漢字を入れれば本当にいいのです。これを読まないで逝けば大変なのです。指導者がこれを読まなければ大変なことになるのです。後代に各自の家に先生が入っているでしょうか、み言が入っているでしょうか。考えてみてください、どうですか。先生のみ言が入っているのです。


三 人類の中心思想は真の愛主義

  一) アダム主義は父母主義


 本来、アダムは私たち人類の始祖であると同時に、家長にもなり、族長にもなり、民族長にもなり、その国の王にもなるというのです。この世界は本来、堕落していなかったならば何主義の世界ですか。アダム主義世界です。アダム主義とは何ですか。神主義です。このようになるはずだったのです。これが堕落することによって、ばらばらに引き裂かれたというのです。こうしてアダムが破壊させたものを再び……。穴がぼこぼこと開いているので、それを直さなければならないのです。堕落したので穴がぽかんと開いているのです。

 アダムとエバが堕落しなかったならば、神様が何をしてあげようとしたことでしょうか。神様が祝福によって結婚式を挙げてくださり、神様が喜ばれる息子、娘を生むようになり、神様が喜ばれる家庭を編成して、これを繁殖させ、氏族と民族を編成するようにしようとしていました。これがさらに広がれば、その世界は何主義の世界ですか。神主義の世界であると同時に、アダム主義の世界です。その世界に理念があるとすればこれはアダム主義理念であり、そこに宇宙観があるとすればアダム主義宇宙観であり、天宙観があるとすればアダム主義天宙観であり、生活観があるとすればアダム主義生活観だというのです。そして五色人種が入り混ざって、そのようなものは問題ないというのです。それは環境によって異なったものなので、数多くの民族の皮膚の色が違うのは問題ないというのです。それでは、どうして数多くの民族の言語が異なるようになったのでしょうか。人類始祖が堕落することによって、天は分立させたというのです。

 主義もアダム主義、言語もアダム言語、文化もアダム文化、伝統もアダムの伝統、生活方式もアダムの生活方式、制度もアダム制度、すべてのものがアダム国家の理念制度にならなければならなかったのです。このような主義が、神主義です。神様によって神様と一体とならなければならないので、神主義だと言うのです。

 主権より人権の平等を論議しなければなりません。私たちが追求する主義は天宙主義であり、神主義です。私と神様が合わさった主義です。今日、民主主義は神様を離れた主義であり、共産主義は物質と人間だけを中心とした主義です。しかし天宙主義は、人間と神様を合わせた主義です。私たちはこの世界を、神様を中心とした主権の世界につくろうとするのです。

 私たちは、心の福地を成すことができる一つの中心を立て、心情の福地を成すことができる一つの中心を立てて、心情と心と体が通じることができる一つの基準を求めなければなりません。そうして体と心が一つになったのちには、世界を抱かなければなりません。ですから今日のこの時代には、世界主義よりも大きい天宙主義の理念が現れなければなりません。そうして人間がこの地で生活する上で、その神主義を中心として体と心が天の心情と通じることができる確固とした基準を立てなければ、私たちは幸せに暮らすことはできないのです。

 人間は堕落することによって、その心と体がサタンの偽りの愛を受け継ぎ、自己第一主義による不協和を起こす個人になりました。このような人たちが集まった家庭、社会、国家、世界は立体的に増幅された藤と紛争を自体矛盾としてもち、相互不信と分裂、闘争をするようになるのです。サタンの願いである自己中心主義によって民主世界は個人第一主義化され、サタンと人類は滅亡に向かっているのです。これを救うために、神様の真の愛を中心とした統一思想と神主義が必要なのです。

 神主義は、自分のために尽くせという主義ではありません。「ため」に生きようとする投入主義です。「ため」に生きようとする主義です。悪魔は自分のために尽くせという主義ですが、神様は「ため」に生きようとする主義です。ですから投入して投入して投入するほど、あの永遠の世界の所有権が増えるのです。共産世界では、投入するほど損をするので仕事をしません。しかし私たちの世界では誰が福を多く受けるのかといえば、自分の部落のために寝ることを惜しんで血と汗を流す人です。神様のように投入する人が、福を受けるようになるのです。

 神主義とは何主義でしょうか。真の愛主義です。真の愛主義とはどのように生きることでしょうか。投入してまた投入し、忘れるのです。このような国民になるならば、大韓民国がどのようになるでしょうか。考えてみてください。分かりましたか。

 父母主義とは何でしょうか。地上でアダムとエバが完成した真の父母主義です。その次に、神主義とは何でしょうか。真の父母は横的な父母なので、縦的な父母が必要だというのです。ですから縦的な父母主義が神主義です。ゆえに頭翼思想という言葉は真の父母主義であり、ゴッディズム(Godism:神主義)とは縦的な神主義です。このようになるのです。横的な真の父母と縦的な神主義の、縦横が一つになって、天の生命、地の生命、天の愛、地の愛、天の血統、地の血統が連結されて人間が生まれたので、人間は二重存在になっているというのです。内的な人と、外的な人になっています。内的な人は縦的な私であり、体的な人は横的な私だというのです。実となるのです。


  二) 父母主義は真の愛主義


 神様が一番好まれるのは愛の文化です。神様にお金や権力、知識などが必要ですか。いい家を設計し、建てるためには、れんがも必要だし、ドアも必要だし、多くの材料が必要ですが、その中でも一番重要なものは、その家を完成させる総合的な完成美を備えることです。人間に対して神様が願われる最も大きな願いは、お金が多いこと、学者になることではありません。聖書のみ言のとおり、思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛せよと言われましたが、それが第一の戒めです。第二は、あなたの体を愛するように隣り人を愛せよと言われました。驚くべきみ言です。

 私たちが行くべき道は、本当に行きたい道であり、私たちが求めて成すべき国は、永遠に住みたい国です。私たちがもつべき財物は、天宙のものであると同時に、私のものであり、この時代のものであると同時に、過去のものであり、同時に未来のものだと保証することのできるものでなければなりません。私たちが泣くとき、天地が共に泣くことができ、私たちが喜ぶとき、天地が共に喜ぶことのできる権威と知識をもたなければなりません。これが今日、堕落した人間たちが現世で求めるべき最高の欲望であり、希望なのです。

 神様の理想国家の実現、すなわち祖国光復は、どこから実現されるでしょうか。怨讐を愛する思想をもった個人から出発するのです。ですから神様がいらっしゃる限り、愛によって国境を壊し、すべての環境と文化的な壁を越えて怨讐までも抱こうという運動を提示したキリスト教が世界的な宗教にならざるを得ないのです。豆を植えれば豆が出るし、小豆を植えれば小豆が出るし、赤い花の種からは赤い花が咲きます。同じように、仕返しをするサタン悪魔の種を蒔けば、仕返しをする悪の木が育ちますが、怨讐を愛する善の種を蒔けば、怨讐を愛する善の木が育つのです。これは自然の理致なのです。

 その国は神様を中心として直系の子女たちが天命を奉じ、神様を身代わりした命令をもってその王権を治める、そのような国であるに違いありません。そこには民主主義や共産主義があり得ないというのです。一度形成されれば永遠の国家体制として残るのです。そのようなことを考えるとき、私自身がそのような国の民になれなかったという事実が怨痛なことではないかというのです。私自身がそのような国で住むことができないことを嘆息しなければなりません。そのような一つの不変の主権をもっていないことを私たちは嘆かなければなりません。

 レバレンド・ムーンを中心として統一思想によって共産主義と民主主義を消化させることができる神主義とは、どんな主義ですか。力を出す主義ですか。真の愛主義です。その真の愛によってこの世の中を、これからどのように料理するのかというのです。

 大韓民国の民主主義は、何のための民主主義ですか。政党のための民主主義ではありません。大韓民国のための民主主義です。それでは大韓民国はどんな主義にならなければならないのでしょうか。大韓民国は世界のために生きる主義に帰らなければなりません。世界は神主義に帰らなければなりません。人間主義は信じられません。百年以内にすべて消えてしまいます。神主義であってこそ永遠無窮なのです。その伝統を受け継いで、真の愛という論理の上にこれが連結されるので、個人も真の愛が必要であり、男性、女性も必要であり、夫婦も必要であり、息子、娘も必要であり、氏族も必要であり、民族も必要であり、国家も必要であり、世界も必要なのです。

 神主義とは、いったいどんな主義でしょうか。愛の主義です。愛主義ですが、いったいどんな愛主義なのでしょうか。「ため」に尽くせという主義ではなく、「ため」に生きようとする主義なのです。これを知らなければなりません。

 神主義とは何でしょうか。個人主義でもなく、家庭主義でもなく、氏族主義でもなく、民族主義でもなく、国家主義でもありません。天宙主義です、天宙主義。天宙主義の基盤をもったそのような霊界に、個人主義の囲いに入った人が行こうとしてみても、行くことができないのです。家庭を中心として「ああ、世の中がどうであろうが、うちの息子、娘、うちのお母さん、お父さんしかいない」と言うそのようなやからの圏内に入るならば、抜け出す道がないのです。永遠に抜け出すことができないでしょう。その壁を誰が壊さなければならないのでしょうか。その中で自分たちだけで自分の主張を立てて、家庭を中心として争い合うのです。争っているのです。

 健康な人は、普通の人が消化できないものを消化します。ですから、誰でも健康な人が好きなのです。人が健康な精神をもった、精神が健康だというとき、何でも消化してしまいます。民主主義も消化し、共産主義も消化し、何でも消化するのです。

 それでは統一教会は、どんな主義ですか。ユニフィケーショニズム(Unificationism:統一主義)です。ユニフィケーショニズムは簡単ですか。皆さん、見てください。私たちの四肢を見ても、この体には目があり、耳があり、鼻があり、手足があり、すべてあるのです。ここに一つの生命が連結され、統一されなければならないのです。そして、これが一つになるためには「ああ、私は目が嫌いだ。どこどこが嫌いだ」と言えばできるでしょうか。みんな「いい、いい」と言わなければならないのです。すべて消化しなければならないのです。

 神様をあがめ尊ぶ人は血を流さなければなりません。神様を愛そうとする人は涙を流さなければなりません。目から涙が乾いてはならないのです。そして、神様を求めていこうとする人は汗を流さなければならないのです。それで父母の心情をもって僕の体で人類のために、アベルの立場で犠牲と奉仕をし、もてる限りの精誠を尽くして与えよというのです。与えながら誇るのではなく、もっと良いものを与えたい気持ちをもって、恥ずかしさを感じながら与えよというのです。これが神主義です。

 公的なものをどのように管理するのでしょうか。個人をどのように管理するのでしょうか。社会をどのように管理するのでしょうか。国家をどのように管理するのでしょうか。さらには世界をどのように管理するのでしょうか。このような公的な管理法を中心として、新しい愛、新しい世界主義を定立させていかなければなりません。その主義は、人間主義ではありません。統一教会の文先生主義でもありません。そんな主義ならば滅んでしまうのです。神主義と一体になれるかなれないかという問題が、生死を決定する原因となるのです。

 今まで世界の数多くの民族、あるいは五色人種がつくった文化圏を全部打破して、一つの文化圏にしなければなりません。言い換えれば、神主義的な家庭制度、神主義的な社会制度、神主義的な国家制度、神主義的な内容を備えた理想社会が展開されなければなりません。そのような主義が、堕落していない完成したアダム主義です。共産主義でも民主主義でもないアダム主義です。それは神主義を求めていく過程です。主義というのは、ある目的を求めていく杖のようなものです。主義自体が要求されるのではなく、目的を成就する上で必要な過程なので、この主義というのは変遷するのです。

 今日、アメリカを民主主義の宗主国として先進国家と言いますが、将来お金によって腐敗し、民主主義が嫌いになる時が来るのです。大韓民国にも今、このような実状が起こっています。民主主義が良いことは良いのですが、今の私たちの国ではお金のためにもろもろの中傷謀略が起き、政権を奪い取ろうとする闘いが起こっています。それが民主主義ですか。それは特権主義的な状態で起こる現象です。

 今日の若者は、「ため」に生きる生活をすれば中心存在となり、責任者となり、保護する主人になるという事実を知りません。自分の生命までも投入して失っても喜ぶ真の愛のみが、男性と女性を、父母と子女を統一させることができるのです。そして、ここに永遠なる神様の愛が臨在することによって、その家庭は永遠無窮な永生的家庭になるのです。これが頭翼思想の核心なのです。永生はここにあるのです。

 利己主義を打破する新しい世界主義が出てこなければなりません。私より他人のために生きる利他主義は、ただ神様の理想からのみ出てくることができます。それは神様が愛の本体であられ、愛の本質は自分を犠牲にして他人を生かす利他主義だからです。したがって、神主義の本質は愛です。その思想は、人の四肢を動かすことのできる頭とも言える中心思想です。それで頭翼思想なのです。

 必勝目標、必勝する上で、どのように勝つのかが問題です。勝つには、神主義の頭翼思想で勝たなければなりません。これは純然とレバレンド・ムーンだけが……。左右を解決するための頭翼思想、神様と真の父母を中心として、十字架で右側の強盗と左側の強盗が闘ったのが、世界的な実を結ぶ時代に、神様と父母が出てきて父母様の思想と神様の思想を中心としてこの二つの手足が……。闘ってはならないのです。これが、何をもって合わさるのでしょうか。知識でもなく、お金でもなく、権力でもなく、愛によって合わさなければなりません。愛を中心として動き始めなければなりません。愛によって命令してこそ、すべてが喜んで動くのです。

 唯一残るのは、絶対的な愛の理想をもった、万国の兄弟の心情圏を備えた神主義です。これのみが、この世界を統治するでしょう! アーメン。


四 民主世界と共産世界の未来

  一) 民主世界と共産世界を一つに


 神主義とは何ですか。先祖主義です。第一先祖主義、その次には頭翼思想です。共産主義と民主主義が闘うのをやめさせる、父母主義のようなものです。父母主義です。頭翼思想とは何かと言えば、それは真の父母主義です。愛を中心とした父母を知るようになるときは、この手も闘っていたのがすべて解かれ、一つになるのです。座る位置、立つ位置、方位を備えて、誰も指導しなくても天理の大道を守って生きることができる人をつくれば、すべて終わるのではありませんか。人が問題です。お金はいくらでもあり、国はいくらでもあります。何が問題ですか。人なのです。

 原理がなかったならば共産主義の克服はもちろん、代案提示も不可能だったというのです。それは、何をもってするのですか。神主義をもってするのです。神主義とは何ですか。真の愛主義です。生命を投入しても、また投入しようとし、何度も投入しようとするのです。そうしてみると、宇宙を包括しても余りある、神様の愛があふれる宇宙になるのです。

 現在、世界で起こっている最後の難しい問題とは何ですか。東西文化の分立の問題です。東洋と西洋をどのように一つにするかという問題です。それは人間の力ではできないのです。左翼と右翼が一つになるには左翼でもできないし、右翼でもできないのです。ここに頭翼が出てこなければなりません。それで頭翼思想の顕現を語っているのです。

 人間が優れているというあの人本主義思想、唯物主義をもってもできません。物本主義思想と人本主義思想では駄目なのです。天意による本然の心情を中心とした、神本主義思想に帰らなければなりません。このような問題を提示して、東西に分立されたこのすべての文化背景を、どのように連結させるのかというのです。アメリカの国民が私に反対しましたが、私に従わざるを得ない段階に入りました。西洋社会も同じです。

 人類の真の平和は右翼でもできないし、左翼でもできません。その理由は右翼も左翼もその根本的動機が利己主義を抜け出ていないからです。自分を中心として自国の利益を中心とするとき、そこには永遠になくならない利害の相衝があり、統一もあり得ず、平和もありません。

 共産主義や民主主義は左右思想です。左右思想とは何かと言えば、カイン、アベルの兄弟思想ですが、東洋から出てくる新しい思想は、父母の思想だというのです。父母を中心とし、アジアを中心として左右が統一されなければならないというのです。これを頭翼思想と言うのです。それで両者に「これ、間違っているぞ」と言えば「そうです」と言い、「私の言うことを聞け」と言えば「はい」と言うのです。それですべて終わるのです。簡単なのです。「お前たちが主張することよりも、父母様が主張することがもっといいので、従わなければならない」と言うときは、「はい」と言うのです。

 私たちが共産主義の本質が無神論にあることを看破するとき、これを克服するイデオロギーが神様を認め、神様を中心とする理念でなければならないことは言うまでもありません。私たちはこのイデオロギーを「神主義」または「頭翼思想」と呼びます。絶対的な神様中心の世界観こそ、共産主義から人間を解放することのできる最も効果的な武器なのです。それは「神様がいらっしゃる」という真の真理のみが、「神様がいない」という偽りを一掃できるからです。

 復帰の道はそんなに簡単ではないのです。今は左右の終末時代です。左右と共に死んでいったイエス様は、父母の恨を残して逝きました。それで父母の思想をもって頭翼思想と神様を中心として、左翼の讒訴圏を離れた立場で統一圏を論議し、反対に回れ右をして無限に進んでいける環境をつくらなければ天国ができません。そのような時です。そのような意味で、先生が神主義と頭翼思想を掲げて兄弟主義をなだめるようなことをするのです。

 現在統一教会で言う統一思想とは何ですか。神主義はあとです。統一思想とは何ですか。左翼と右翼が闘うのは、頭がないので闘うのではないですか。ですから頭があれば、頭翼思想、左翼思想、右翼思想、三つの思想が合わさって連合思想が出てくるのではありませんか。その連合思想の主体とは誰ですか。どんなに考えてみても頭の上がすべての神経系統の中枢神経の根なので、そこを通過しなければ出ることができないのです。それでは、その根の中の根とは何ですか。それを知らないでいるのです。根の中の根は、神様です。神様から出てくる頭翼思想です。

 左翼、右翼がいつも双子のように一つの懐に抱かれてお互いに足でけったりしないで、乳を分かち合って飲みながら、取り替えてもいいと言える双子にならなければなりません。アダムとエバがそのように神様の懐で愛することができる立場に立たなければ、天国は出てこないのです。ですから私がアメリカに行って怨讐を合わせ、怨讐の国で天の国の伝統基盤を立てて、天国の出帆を宣言したのです。聖書で言う怨讐は、個人ではありません。国です、国。

 皆さんには、神様と真の父母以外にはいないというのです。そうでなければ、サタン世界に伝統的基盤を立てることはできないのです。これを立てずしては。サタンはこれ以下のものなので、それ以上上がれないのです。このような時が来るので、金日成も、ソ連も、アメリカも長くないというのです。ただ文総裁の思想だけが世界に頭翼思想として残るのです。頭翼です。右側の右翼を中心として、左側の左翼を中心として、頭が治めることのできる水平線上に置いておいて一回りだけすればいいのです。左側が右になり、右側が左になる日にはすべてが終わるのです。

 韓国はもちろん、全世界は今、価値観の没落によって大混乱に置かれるようになりました。本人は、このような世界に向かって今まで世界的な碩学たちを対象に、愛を中心とした絶対価値を主張し、頭翼思想を宣布して、左翼・右翼の間違いを正し、新しい世界へと進んでいくことができるように指導してきました。そうして我が祖国、韓国の地から世界的な指導者たちを排出して、統一の世界、平和の世界である地上の楽園を成就しなければなりません。我が祖国の統一はもちろん、東西の文化的な違いと南北の貧富の格差を神主義と頭翼思想によって解消し、愛を中心とした人類大家族社会である平和の世界を建設していかなければいけません。

 南北が引き裂かれて南北の貧富の格差が開いたのを一つにしなければなりません。東西の文化を一つにしなければなりません。人種差別、文化の差別をなくして一つにしなければなりません。何によって一つになり得るのでしょうか。これが絶対的な一つの愛から出発できなかったので、この絶対的な愛によって宇宙版図の上にしっかりとしておけば、統一教会に反対する喚声がなくなるのです。そのようになるとき、世界はこの愛のふろしきに老若男女を問わず一つに包まれるだけでなく、霊界にいるすべての霊人もこのふろしきに包まれることを願うことでしょう。ですから頭翼思想を中心とした天宙統一という言葉が、妥当な言葉なのです。アーメン!

 社会主義、共産主義は絶対的な一つの国を指向しているのです。これから神様の理想を中心とした所有権復帰の時代が来るので、サタンは先に知って、共産主義を通じて世界的な神様の所有権をなくしてしまおうと計画したのです。それでサタンとしてはできることをみなやりました。先生は神様の側にすべてを復帰しました。それで理論的にも思想的にもみな手を挙げたのです。今は文先生の前に、神様の前には反対するものが何もありません。

 今も所有権が問題になっているでしょう。共産主義、社会主義は国家が所有主になっています。民主主義は個人が所有主になっています。それを移行して誰の所有でしょうか。全世界の所有は神様のものであり、全世界はその子女たちのものであり、その子女は家庭のものなので、その移行する過程において、一箇所に集めなければなりません。そのような主人には、ただ神様がならなければなりません。神様が主人になり、神様の所有権をもつ主人となって、真の父母に伝受され、真の父母によって子女に伝受されてこそ、その所有決定権は神様の世界のものになるのです。

 自分の物、自分の息子、自分の夫婦自体が自分のものではありません。天使長の立場にいるので、絶対否定の立場、所有権を否定する時代を超えなければなりません。そのような時代に行くので、社会主義や共産主義というものは個人の所有がありません。国家の所有、社会の所有を言っているのです。大韓民国もそのようになるでしょう。お金をもうけてもみな取られるではありませんか。そうでしょう。そのような時代に入るのです。


  二) 宗教と哲学を収拾する頭翼思想


 哲学において観が違い、物質が先だとすることによって共産主義が生じ、心が先だとした観から民主世界ができたのです。唯心史観と唯物史観が起こったのです。このようにして歴史が変わり、目的が変わったのですが、それが正しくないので全部壊してしまわなければなりません。心と体というのが主体と対象の関係になっていることを知らなかったのです。これを別々に切り離して考えたので、行く道がないのです。そのような意味で今、文総裁が主張する神主義や頭翼思想というこのようなものが問題になるのです。主体自体が生じるとき、主体自体のためにできたのではなかったのです。

 頭翼思想とは何かと言えば、完成したアダム主義です。アダムが堕落することによって完成したアダムになれなかったので、アダムを育てあげるためにサタン側の息子、神側の息子を育てていったのです。それで、左右が互いに主人になろうとして闘ったのです。そのような歴史です。頭翼思想は何を中心とした思想でしょうか。原理で見れば、間接主管圏と直接主管圏が統一されていません。アダムが責任分担を果たすことによって間接主管圏、直接主管圏が一つになる思想です。どこで一つになるのでしょうか。十段階を越えてです。

 統一をどのようにするのですか。強制的に殴ってできますか。そのようにしては絶対いけません。たたいては一人も統一できません。どのようにしますか。「ため」に生きるのです。一番貴い愛と生命と血を投入するのです。それをするやからが統一教会です。統一教会とは何ですか。どのように統一するのですか。それでは、それはどんな主義ですか。それは神主義であり、真の父母主義です。真の父母主義とは何かと言えば、頭翼思想です。

 今までの数多くの「主義」は、不変の方向を取ることができませんでした。アメリカはアメリカだけを中心として、ソ連はソ連だけを中心として、民主主義は民主主義だけを中心として、共産主義は共産主義だけを中心としてきたのです。宗教もそれと同じでした。それは、神様が願われる方向ではありません。一時も同じ方向を取ることができず、すべて東西南北にそれぞれ分かれました。今まではどんな組織、どんな責任者、どんな国家も神様が願われる方向をつかむことができませんでした。ですからこれからは、個人、家庭、社会、国家、世界、宇宙、天宙などすべてのものは、永遠不変の方向性をつかまなければならないのです。そのようなものを代表したのが頭翼思想、神主義だというのです。

 今、東西問題を中心として見たとき、民主主義が勝ったと思わないでください。民主主義は何もありません。民主主義というのは政治形態の一つの解説方法です。思想的基礎は何もありません。今、思想の空白期に入ったのです。これから私たちの思想を教育しなければなりません。神主義、頭翼思想を掲げていかなければなりません。それをもって、制度化して引っ張っていく機関が必要なのです。統一教会をもってしては駄目なのです。

 皆さんはここに何のために来たのでしょうか。世界のために来たのです。世界のために闘っているのです。すべてが世界のために投入し、また投入する人たちです。このような原則から見れば、理論的に神様の創造原則と一致するので、統一教会は後退しないのです。発展、発展、発展するのです。今は頭翼思想を中心としています。これは右翼と左翼のすべてを包容するのです。また、これは神主義を中心として霊界までも収拾することができるのです。霊界と地上界を収拾して、真の愛による世界を出現させることが、神様の創造理想であり、原理にかなったことなのです。

 見てみなさい。民主世界は右翼を代表し、共産世界は左翼を代表します。これらは今崩れつつあります。アメリカも同じです。両世界ともセンターがありません。これから必要なものは統一思想と神主義だと、レバレンド・ムーンが宣布しました。いかなるヒューマニズムも神様の前に出ることはできません。神主義しかあり得ません。神様だけが絶対的であり、永遠のセンターです。頭翼思想だけが全人類のセンターになることができます。真の意味の霊界と肉界のセンターになるのが真の父母主義です。

 聖書でも「終わりの日には自分の家の家族が怨讐だ」と言っています。終わりの日には家族が怨讐になるというのです。このような逆説的な論理がどうして設定されたのでしょうか。これは一度反対にならなければなりません。左右が一八〇度回ればどうなるかということです。大変なことになります。方向が変わるというのです。それで主体思想、頭翼思想が必要だというのです。それでは頭翼思想とは何でしょうか。神主義を求めていくことです。神主義を求めて何をするのでしょうか。平和主義として再度出発するのです。神主義は神様と出会って愛を中心として一つとなり、平和主義として再度出発することによって、この世界で本然的な地上天国の出発基地ができるというのです。そこで一生涯生きた人は間違いなく永遠の世界にそのまま入っていきます。手続きもせずにそのまま入っていきます。鑑定がありません。簡単でしょう。

 聖人たちも道端に立ち止まっています。自分が行くべき道を行くことができません。根本を知らないからです。しかし統一教会の文総裁は直行するのです。み前に直行して、み前で報告するのです。その道が真の父母が提示した基準であることを知り、頭翼思想、神主義の思想に従って花咲けというのです。これが心身一体理想です。アーメン。

 イエス様が死ぬことによって左翼と右翼が生じ、バラバ圏が生じました。願わない死でした。生きて統一すべきでしたが、死ぬことよって今まで個人、家庭、氏族、イスラエルが戦ってきたというのです。ですから、このようなすべてのことが統一されなければならないのです。頭翼思想を中心として、神主義を中心として、完全に統一されなければならないのです。バラバ圏の前にサタンが立っています。それでイエス様が行こうとするとき、イスラエルの国の前に怨讐であるイスラム教圏が生じたのです。


五 神様を中心とした主権が復帰されれば

  一) 神様のみ旨が成就した世界


 人間の力、人間の知恵、人間の文化、このどれをもってしても真の意味の平和の世界や、一つに統一された世界を願うことができない視点にあるということを私たちは知っています。このような立場で世界文化を解決する上で一番中心となる問題は何でしょうか。神がいるのか、いないのかという問題を、確実に解明することが何よりも重要な問題だと見るのです。もし神様がいるということを全人類が知った日には、神様のみ旨がどのようなものを指向するのかを確実に知るようになるでしょうし、その指向するみ旨を知るときには、その世界はそれこそ一つの世界であり、平和の世界であり、理想の世界でないはずがありません。

 大きいものを得るために小さいものを犠牲にすることは、正常なことです。より価値のあるものとすり替える人が、知恵のある人です。これが世界に行くための正当な道です。人間はより大きなものを憧憬するのであって、小さいものを憧憬しません。より大きいものを願うのであって、小さいものを願いません。

 私たち統一教会が違うのは、これです。統一教会は父母を愛するように兄弟を愛し、兄弟を愛するように氏族を愛し、民族を愛し、国家を愛そうというのです。父母を捨ててでも国家を愛そうというのです。世界を愛するためには自分の国も捨てなければならないのです。また、天を愛するためには世界まで捨てようというのです。もっと遠く大きいもののために、私に近く小さいものを犠牲にする愛の道を求めていこうというのが、統一教会の主流思想です。

 今日、民主世界が第三解放を要求するならば、共産世界では第二解放を要求するのではないでしょうか。このような問題を考えてみるとき、第二解放、第三解放の旗手になり、その源泉とし得る新しい主義と思想は、どこから来るのでしょうか。これは、人間世界からは出てくることができません。人間は今まで数千年の間、この解放を迎えるために身もだえして努力してきましたが、そのような環境も、内容ももつことができませんでした。それゆえ、人間だけを中心としては解放することができません。

 皆さんは民族主義者になりますか、世界主義者になりますか。宗教は世界主義だけではありません。人間だけを良くしようという主義ではなく、神様まで良くしようという主義です。しかし共産主義や民主主義は、人間だけを良くしようという主義です。それで神様まで良くしようという主義と、人間だけ良くしようという主義と、どちらの主義がいいですか。神様もいいし人間もいい主義がいいですか、主人を除いて僕たちだけで喜んでいる主義がいいですか。宗教は、それでいいものなのです。

 最後に残る思想は何でしょうか。世界のために、自分の国や国民よりも世界をもっと愛することのできる運動、神様をもっと愛することのできる運動だけが、最後に残り得る主義になるでしょうし、思想になるでしょう。ですから、この国を越えることができる超民族的運動を世界的に提示し、超民族的に天が愛することのできる立場に、あるいは世界の人々が愛することができる立場に、自由に行けるようにするためにはどのようにすべきかを模索する主義だけが問題となるのです。

 今後この世界を受け継ぐ主義、思想は、自分の国家を犠牲にしても世界を救おうとする主義、思想です。このような思想をもつ国、このような新しい運動を中心とした国家と国民が登場するようになるとき、この世の中には新しい希望の世界が顕現するでしょう。そこから新しい統一の世界、理想世界が顕現することでしょう。国を越えることができない国家観、歴史観は、神様の理想世界を引き継ぐことはできません。

 一つの目的に帰一させることのできる思想は、自分を中心とする世界観ではありません。この思想は世界を中心とする世界観であり、万国を中心とする世界観です。これが、一つの目的に帰結させることができる思想です。これは、世界と分離された立場から自分の氏族を誇る思想ではなく、人間自体のために生きる思想です。人間ならば誰でも、このような思想によって成された世界を願っているというのです。

 黄色人種は長男であり、黒人は次男であり、白人は三男ですが、彼らが争うのを韓国が統一思想を通じて統一することができるというのです。このようになることによって、神様を中心とした理想的祖国創建ができるというのです。そこから初めて、平和の世界、一つの世界、統一の世界、勝利の世界へと、世界は収拾されていくというのです。そのようにして地上に天国を形成すると同時に、神様と一致しなければなりません。天上天国の主体であられる神様を地上にお迎えして、統一された一つの天国を形成しなければならないのです。これが統一信徒たちがやらなければならない使命であることをはっきり知らなければなりません。このような基盤のもとで初めて父母と一つとなることによって、平和の天国生活が始まるのです。

 統一教会とはいったい何ですか。右翼を抱き左翼を抱いて、これらをつかんでどこに行くのでしょうか。ここから追い込まれて争う、闘争の世界を越えて、天が導く幸福の世界に、ユートピアの世界に導くのです。これらを抱いて平面的に行ってはいけません。これが何のことかと言えば、統一教会が、思想的に体制によって没落して失敗したことを全部収拾することのできる論理体系をもっていると同時に、これを抱いて横的に運行することができるのです。また同時に、宗教を中心として縦的な基準で運行し得る霊的な体験の基盤を中心として、超越的実体を追求しなければならない内容をもつべきなのです。

 統一思想は、人間的面での人本主義や物本主義、今までの過去のすべての神本主義も体系的に理論化させてこれを統合することのできる内容をもつと同時に、縦的面で宗派を超越して連結していくことのできる超自然的体験の宗教思想にならなければならないという事実を知らなければなりません。

 すべての物質主義者、共産主義者たちが見るとき、「統一教会の信者であるあの人は、私たち共産党よりも徹底していて、人格的に良心的に内外すべての面において徹底している。共産党自体があのような人を必要とする」と言うことができ、また世俗的な人本主義者たちが見るときにも、「ああ、私たちの世界にあのような人がいたらいい」と言うことができ、今までの既存宗団たちが見る時にも、「ああ! 統一教会の信者は私たちの宗団を越えた立派な人だ。あのような人が私たちの宗団の人だったらいいのに」と言うことができ、神様が御覧になれば「ああ! この人は私に絶対必要だ」と言うことができる、この四大面において必要とされる資格を備えた人がいたならば、問題は解決されます。

 二) その国を求めていかなければならない


 皆さんが願うその国とはどのような国ですか。その国は今日、皆さんが生活しているこのような国ではありません。このような国は、どうせ別れを告げなければならない国です。皆さんがこのような国と因縁があるとすれば、罪悪の因縁があるというのです。皆さんは、その国のみ旨と神様のみ旨が結びつくことができる善の因縁を本来から結ぶことができなかった、堕落した人間の後孫として生まれたということを、自らがよく知っています。

 国がなければ国籍がありません。国がなければ入籍し得る土台がないのです。私たちは民族編成をして、新しい入籍をしなければなりません。この地上に天の国を編成し、その国籍をもち、愛国愛族する、真であり善なる父母の血統を受け継いだ勝利的息子、娘として、自分の血族あるいは家族を率いて生きたのちに逝ってこそ、天上世界の天国に入ることができるのです。これが原理です。

 国があって初めて、千秋万代の私たちの後孫の前に、大切に残してあげることのできる伝統も残るのであり、私たちの血と汗を流したすべての努力も残るのであり、天の苦労を祝うことができる記念の塔がこの地上に生じるのであり、すべての栄光の痕跡がこの地上に残ることができるのであって、国がなくなるときには、すべて無駄になるというのです。今日の世界キリスト教において残された十字架だとかすべての文物も、天が求めようとする国がなくなるときには、全部を川に流さなければならず、燃やしてしまわなければなりません。サタンの籠絡(注:まるめこむこと)に倒されていくということを知らなければなりません。それゆえに、国が問題だということを皆さんは知らなければなりません。

 真の父母の愛を受け、神様の愛を受けなければなりません。ところが神様の愛は、国がなくては受けられないのです。本来のアダムは、一人でも国の始まりです。サタン世界のサタンの国より優れた国があってこそ、神様の愛を受けるのです。私たちは神様の愛を受けますが、代わりに受けるのであって、直接受ける立場になっていないのです。真の父母の愛は受けることができますが、神様の愛を受けようとするなら国までもたなければなりません。国です。なぜでしょうか。サタンが残っていて、サタンの国が残っているからです。それよりも上がっていかなければならないでしょう。そのような道を、皆さんが行かなければならないということをはっきり知らなければならないのです。

 先生は復帰摂理を歩んでいます。この世の政治と経済、文化世界を基盤として神様の摂理を解いたということは歴史上にないことです。今、世界の学者たちの中で韓国語を勉強する人が増えています。レバレンド・ムーンのみ言選集を原語で読むためです。それは通訳、翻訳すれば権威がないのです。皆さんは、これを読むことができなければいけません。皆さんが、この原語で書かれた先生のみ言集を一度読んでみなければならないのではありませんか。

 私たちが求めなければならない祖国というものは、今日この地上にある、そのような歴史と伝統をもつ国ではありません。そのような国とは本質的に次元が違うのです。私たちは次元の違うその国を受け継ごうとするならば、そうすることのできる思想的な主体性をもった国民にならなければなりません。しかし、その主体的な思想は、絶対的な創造主の思想と一致された思想でなければならないのです。絶対者が願う国が存在するには、その国の主権を中心としてその国の国民が一致することのできる国になることを願わなければならないのです。そのような国民性をもち、国家形態をもたなければならないのです。

 本然の地とはどんなところでしょうか。悪が宿るところではありません。悪と絶縁して、あふれ流れる本然の愛を中心として永遠無窮に幸福を謳歌しつつ生きる永遠の統一世界です。ところで、そのようなところで生活した人がいたでしょうか。一人もいませんでした。歴史上、数多くの人々がそのような世界を追求しましたが、そのような世界はこの地上に建てられませんでした。その世界がどんな世界だと言葉を語った人はたくさんいましたが、自ら実践してそのような世界を成した人はいなかったというのです。

 一つの国が形成されるためには、主権がなければならず、国民がいなければならず、国土がなければなりません。天の国も、やはり同じです。主権を代表するのが父母であり、国民を代表するのが息子、娘であり、国土を代表するのが国だというのです。この中で、どの一つも除くことはできないのです。これは鉄則です。

 国が形成されるためには、国土がなければならず、国民がいなければならず、主権がなければなりません。主権とは何でしょうか。根源的な神様と因縁を結ぶことです。国を治める人々は、国民が深く寝入ったあとに神様と因縁を結んで政治をしなければなりません。そうして、主権者は国民と一つとならなければなりません。国民と一つとなって、自分にあるすべてのものは自分のためのものではなく、国のためものであると考えなければなりません。そのようになれば、その国は繁栄するのです。

 一つの国を見れば、国が形成されるためには、その国の主権がなければならないのです。国民がいなければならないのです。国土がなければならないのです。そのような観点から地上に天国を実現するという問題を考えてみるとき、天国の主人とは誰でしょうか。主権者とは誰でしょうか。間違いなく神様が主権者です。そして国民とは誰でしょうか。国民は万民です。それでは国土とはどこでしょうか。地球星です。

 どんなに大きい社会、どんなに大きい国家だとしても、人に似なければなりません。これは、神様が御自身の形状に似ているものを好まれるからです。それでは、人が一番好きなものとは何でしょうか。自分の形状に似たものです。それゆえ、理想的な国家は人に似なければならないのです。似ていますか、似ていませんか。天地人に似ているというのです。

 私が行き来するのもその国を取り戻すための、祖国光復のための、建国の功臣になるためです。そのような使命を担って、あるいは天の密使として指令を受け、今日、悪い世の中に来てこのようなことをしているという事実を考えながら、生きていかなければなりません。そうでなければ皆さんは今後、やがて到来する国の国民として、その威信と体面を立てることができないということを知らなければなりません。

 さあ、六千年の間、神様に打撃を与えてきたサタンがただ素直に「ああ、私は下降した」と視線を落として帰るでしょうか。皆さんはぞうきんのような物も捨てようとすれば、もったいないと思うでしょう。ぞうきんの切れ端でもひっくり返してにおいをかいでみて捨てるでしょう。サタンがただで引き下がるはずはありません。それで執拗に闘いを挑んでくるというのです。ですから中心に合わせなければなりません。統一教会の文先生も中心からずれてしまうときは、折れていくのです。方向が合っていなければ発展しません。

 統一教会員たちは裸足で立ち上がって、祖国を創建しなければなりません。食べ残しをもってこの国を生かすことができるのでしょうか。いつ食べて、着て、乗り回ることに気を遣っていられるでしょうか。裸足で、素手で開拓していこう、このようにするところが統一教会です。


第四章 成約人への道

 一 真の御父母様の勝利圏確定

 一) 八定式・・長子権、父母権、王権復帰

    

(一九八九年八月三十一日〈陰暦八月一日〉アラスカ、コディアック)


 縦的な蕩減、横的な蕩減、八段階の蕩減がすべて終わったので、一九八九年八月三十一日を中心として八定式というものを、西洋社会で最も高いアラスカに行ってしたのです。最も高い所です。そして九月一日に天父主義を発表しました。天父主義です。愛援主義であると同時に父母主義です。父母主義とは、愛そうということです。愛することにおいて、サタンは反対することができません。統一教会が行く道の前にサタンが反対しなければ、あっという間に世界的なものとして展開されるのです。

 個人蕩減、家庭蕩減、氏族蕩減、民族蕩減、国家蕩減、世界蕩減、天宙蕩減、神様の心情的蕩減まで八段階があります。それは個人復帰、家庭復帰、氏族族的復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様までの八段階です。これは、縦的な蕩減路程、横的な蕩減路程を、愛を中心として上下にすべて無事通過することができるのです。このように連結されれば、その球自体は愛圏の所有物となるのです。そうなれば、この地球星ではサタンが所有権をもつことができないので、サタンは自動的に追放されるのです。おしまいです。

 一九八九年は新しい時代の一月、二月、三月、四月、五月、六月、七月、八月の末です。八月末ですね。八カ月の間に世界的な蕩減路程を終えました。それで昨年の結婚式、交差結婚式、世界統一国開天日の宣布など、様々なことをしました。総合蕩減条件を樹立したのです。すべてをそのようにして、八月に終えました。海上、水上にまで連結したのです。先生はここまでやってきました。

 八定式とは、縦的な蕩減歴史的路程、横的な個人、家庭、民族、国家、世界蕩減路程、八段階の縦横の路程を経て定着するので、長子権復帰が成され、地上世界の人間の前には蕩減の路程が解消されるのです。八定式をすることによってそうなるのです。長子権が復帰され、父母様の懐に抱かれることによって、父母の愛圏内で長子権を復帰するための歴史時代における戦争史、闘争史は消え去り、愛によって和合することができ、蕩減の必要がない時代となったのです。そのためには八定式をしなければならないのです。八定式をすることによって、その息子、娘、長子と次子を前にした父母の立場で、そのような子女を許してやったので、その次には父母の許しの圏時代が来るのです。

 今の民主主義時代は、兄弟主義です。原理で言えば、カイン・アベルを中心としたのと同じことです。原理がぴったりと当てはまっているのです。カインは、あとで神様にすべてを奪われます。既に頭も奪われ、体もすべて奪われました。もう行く道がないので、労働者と農民を中心として、民主世界を侵食しようとするのです。それがいけないのです。秋になって実がなっても、そのまま腐ってしまいます。下がるのでなくなります。兄弟圏復帰です。その兄弟主義とは、真のアダムを探し求めることです。それをするのにこれほど長くかかりました。

 戦争史でつづられてきたこの民主主義の末路は、いかにすれば終わるのでしょうか。父母が来なければなりません。父母主義が現れなければなりません。ですから統一教会は、この世の救援摂理時代は過ぎ、愛援摂理時代となっていくという、多くの宗教は知らずにいることを宣布したのです。既成教会の牧師たちは、愛援摂理時代とは何で、天父主義時代とは何なのか、全く知らないのです。八定式とは何なのかも知らず……。

 天父主義を中心として、民主世界と共産世界を消化することによって、王権樹立時代となっていくのです。これをはっきりと知らなければなりません。


  二) 天父主義によって父母権、王権へと越えていく


 天父主義というのは何をもってそう言うのかというと、家庭です。それゆえ、神様がこのみ旨を成すときを中心として、サタン世界や民主世界の最も大きな問題は家庭の破綻の問題です。共産世界は家庭というものを認めません。家庭は搾取の基盤になっていると言うのです。神様との関係が結ばれていないのです。

 民主世界も同じです。ですから実際のところ、家庭形成におけるすべてが傾いているのです。社会基盤であり、国家基盤であり、世界の基盤であるにもかかわらず、これが今まで乱れていたのです。ですから今後、私たちの家庭基盤を中心として、右翼世界と左翼世界は自然と吸収されるのです。

 これからは家庭絶対主義時代です。家庭を抜きにしては、天父主義というのは成り立ちません。主義というのは一つの過程的なものです。橋を渡るようなものです。統一国というのは、家庭を中心としてできるものです。それゆえ、家庭を絶対視しなければなりません。家庭において絶対的な神様のような父母に侍ることによって、絶対的神様の二性性相、性相と形状が絶対的に分立しないように、永遠に共にあったのと同じことです。次には子女が、アダムとエバが堕落することなく完全に一つになったのと同じことです。

 天父主義とは、家庭を中心とした王権を回復して連結することによって、王権が復帰されることです。天宙的王権が復帰されるのです。ですから、家庭がなければならないのです。家庭が中心なのです。統一的家庭基盤を通し、アダム的統一家庭、氏族的アダムの統一家庭、それなのです。アダムの氏族があったはずです。民族的アダムの家庭を中心として統一して、それがずっと連結されなければならないのです。そうしてこそ、統一的家庭基盤を通して王権が復帰されるのです。

 天父主義を宣布することによって、これからは統一王権主義時代とならなければならないのです。神様が王にならなければなりません。私たちは神様を中心とした一つの主権を誇るのです。イエス様が願い、神様が願われた統一王国をつくって、天上世界と地上世界の地獄を撤廃し、神様が直接統治することのできる愛万能圏時代になるのです。

 愛の伝統に従って、垂直的愛とは何であり、縦的な愛を中心としてどのように連合するのかということをはっきりと知って生活舞台に適応することによって、万国万象世界、天上世界のどこにおいても、それが拒否され得る圏を越えることによって、自然に解放の時代となるのです。統一の時代となるのです。

 本来アダムが完成すれば、天国の父が完成し、エバが完成すれば、天国の母が完成します。ですから、家庭の主人となれば、家庭的天国の王権ができるのです。それゆえ、アダムとエバは個人的王であり、家庭的王であり、氏族的王であり、民族的王であり、国家的王であり、世界的王となるのです。今やそのような国家基準を越えることのできる時になったので、サタン世界の王権を踏んで、天の世界の王権を定めることができるのです。その日が、一九九〇年三月二十七日というわけです。それゆえ、世界は今や、レバレンド・ムーンがブームを起こすとおりに動くようになっているのです。

 お父様、一九八〇年代を中心として、救援摂理の路程を愛援摂理の路程へと転換し、兄弟圏怨恨の蕩減路程を立てて兄弟解怨時代を迎えるようになり、その上に父母解怨時代を迎えることのできる歴史的起源を整えました。八定式を中心とした天父時代を発表し、理想的摂理時代を越えて、天と地を中心としたすべての復帰摂理の恨の峠を清算し、今後、一九九〇年代には統一家を中心としてすべてが、お父様、摂理圏内の統一世界へと入っていくべき、歴史的で、厳粛な課題を控えております。

 興進君が天上世界へ行くことによって、イエス様と一つとなり、キリスト教のすべての聖賢、賢哲を今後糾合し、今や南北統一を中心とした、その限界線を越えることのできる時となりました。天父主義時代を発表いたしました。愛援摂理時代を発表いたしました。今や、死亡世界のすべての峠を越える分水嶺を過ぎましたので、天の圏に接することのできるこの時代を迎え、統一家のすべての氏族が結ばれる基盤を通して、霊界が平面図上で交流することができ、交差することのできる摂理史を迎えるとき、全権的に霊界を中心とした新時代がやってくるということを知っております。

 ですから、興進君はより一層、この時代において天の法度を立て、地上の法度を立てることにおいて、先君先女(歴代の王、王女)たちと、百二十の国家の王権を代表することのできる、そのような君王と忠臣を集めて、天の前に忠孝の道理を誓うことのできる教育をし、精誠を尽くすことができますよう、天よ、共にあってください。アーメン。


二 摂理的総決算と真の御父母様の大宣布

  一) 真の父母(メシヤ)宣布


(一九九〇年四月三十日〈陰暦四月六日〉、韓国)


 真の父母をなぜ宣布できるのでしょうか。民主世界と共産世界はカイン、アベルの兄弟です。民主世界と共産世界が二人の息子と同じなのに争っているのです。ところが、私が二人の息子が争っていたのを和解させて歓迎され得る立場に立ったので、初めて父母の特権をもって韓国の地へ来て、真の父母宣布を挙国的にやったのです。

 すべてのことを信じることのできない世の中であり、見通しのない世の中であり、絶望的な世の中ですが、一つの希望が芽を出しました。それが何かというと、真の父母です。それを韓国の地に宣布したのです。一九九〇年四月九日、世界言論人大会をモスクワで開くことによって、民主主義と共産主義の両体制を勝利圏へと導き、その基台の上で韓国に帰ってきて韓国を起点として全世界に宣布したのです。

 聖書の目的はただ一つ、真の父母を探し出すことです。それが最も希望に満ちた福音です。サタンも被造物なので、真の父母が現れればなくなるのです。そのような時が近づいたので、共産党が崩れ、北韓も今崩れようとしているのです。四方を見ても道はありません。先生はよく知っています。

 そこに天国が実を結び、天上地獄と地上地獄が解放されるのです。私たちの目的は、神様と人類、そしてサタン圏の中にあるすべてのものを解放し、救うことです。それが私たちの目的です。私たちはそのような父母の心情を宣布するのです。前進するのです。そこにサタンが存在することはできません。それが原理観です。

 共産主義は、僕と主人の主人主義です。自由がないのです。民主主義は兄弟主義です。兄弟主義なので自由なのです。自分たちの間では自由があります。ですから争いの連続になります。互いに自分の方が優れているといって闘うのです。そこで、ヘッドウィングとは何かと言えば、父母主義です。上院議員と下院議員が争い、共和党と民主党が争いますね。父母がいないからなのです。父母さえいて、「こら、どうしてけんかするのか。お前たちは僕ではない。私の息子なのだ」と言えば、すべて終わるのです。黒人と白人の間における人種主義も同じことです。


 共産世界はどうでしょうか。先生はゴルバチョフに、レーニンの銅像と、マルクスの銅像をも撤去するように言いました。共産党の歴史上、そのようなことを言った人物は、レバレンド・ムーンしかいません。ソ連の共産党幹部たちはみな「我々の前で神主義を語るとは、なんと傲慢なことだろう」と騒ぎました。

 彼らがいくら先生が憎いといっても、共産世界は今、そのようになったのです。彼らが世界で最も恐れていた存在が、彼らにとって唯一の希望の存在となりました。ほかに希望はありません。ですから「私の言うことに従いなさい。さもなければ道はない」と先生ははっきりと教えてあげました。

 今後、地上はどうなるのでしょうか。第一、第二、第三イスラエル圏を通して動いてきたことすべては、真の父母の名を発表してしまえば、その領域はすべてエデンの園のようになって、宗教圏の歴史はすべてなくなるので、天使世界にいる霊は、いつでもここに来ることができるのです。それゆえ、いつでも再臨することができるのです。それはどういうことかというと、原理結果主管圏です。天と地は、僕がついているのですべて霊界と同じです。真の父母を宣布することによって、このような基準が再び連結され、サタンはいなくなるのです。

 それゆえ、自由にここに来ることができるのです。これが縦で、これが横で、この角度は九〇度です。九〇度の角度というのは、サタン世界の領域ではないのです。角度が異なるものとなったがゆえに、堕落世界が生じたのです。九〇度であってこそ神様が主管できるのです。そこにサタンはいません。解放です。霊界が解放され、地上が解放され、被造物もすべて解放されます。そこには蕩減路程もありません。

 真の御父母様の宣言を発表することによって、サタンの権限がなくなり、宗教を中心として闘争してきた蕩減法もすべてなくなり、善なる霊が天使世界に匹敵するので、堕落のない世の中となり、思いのままに地上に協助することができるのです。その天使たちが皆さんの先祖です。ですから、今から統一教会に反対しようものなら、ありとあらゆることが起こるのです。

 今日、メシヤに関する事実を宣布するのです。皆さんの両親と、皆さんすべてが解放され得る道を開いて王権を発表し、真の父母を宣布するので